Deep Connection



1 

われら疑似家族として共に暮らしはじめてまる2年が過ぎた。

右に座っているのが「息子」のプトゥで左が「孫」のプトゥ。仕事を終えたあとふたりで庭で遊んでいたが、しばし休息、そこへ南の方角からングラ・ライ空港を飛び立った飛行機がゆっくりと空をすべっていく。偶然、ふたり同時にその方向に視線をむけおなじものを見つめていた。

バリ人の習俗である出生順名からすると、大きいほうのプトゥは本来戸籍上は「ニョマン」で3番目ないしは7番目に、まれには11番目に生まれてくるこどもにつけられる共通の名前だ。ところが、かれの家では、このニョマンの名をさずかる順番に生まれてくる子が不幸にも夭逝してしまう。その不幸をかれの家族は避けるために、あらたに生まれてきたかれの通称名を「プトゥ」とした。「ワヤン」とともに、最初の、あるいは5番目、まれには9番目に生まれてくる子どもにつけられる出生順名だ。だから、かれは本来のニョマンと呼ばれることなくつねにプトゥと呼ばれつづけてきた。家族のその工夫の甲斐があってなのか、こうしてかれ自身が最愛の長男・プトゥを授かるまでにつつがなく30年を経てきた。

7年前に、かれは実の父の葬儀を家族とともにやり終えた。数か月にわたる準備期間のうち、最後のひと月はぶっ通しで仕事を休んだ。家族の所有していた土地を売却して葬儀資金を用意し親族総出で葬儀当日までのノルマをこなしていた。
バリ人っていうのはほんとうに大変...とかれ自身がその時つぶやいていた。完全に手づくりの葬儀であり、しかし年とともにその費用は大きくなる。葬儀までに用意しなければならない膨大なお供え物と数々の儀式、その経済的負担も一般の年収の何倍にもあたる。それを義務として、慣習として、宗教的営みとして順従にこなしていかなければならない。一歩踏みだしたら、弱音をはいてもやめるわけにはいかない。
バリ人として宿命のように義務づけられたその大変さを、かれは父の葬儀の準備を通じてはじめて知った。

葬式当日に手伝ってくれる村人全員にお仕着せのTシャツを配る。その絵柄は、胸の部分にかれの父親の「遺影」をプリントしたものだった。
かれには父の記憶はない。ものごころのつく時期にはすでに父は存在していなかった。写真でしか見たことのない父親のその姿をPCにとりこみ、プリント用のデータをじぶんでつくっていた。


息子のプトゥが生まれて2週間ほど後に、かれはバリの民俗習慣にしたがい、息子がだれの生まれかわりなのかをオラン・ピンタールのもとに伺いをたてに家族とともに出かけていった。
かれの予測どおり、実父の生まれかわりとご託宣はでた。
記憶にない父と、いっしょに暮らすことがはじまった。
父の背を見て育つ経験はなかったが、父のたましいを継いだ息子に父親として接する日々がその日からはじまった。


3

1986年に出版された大竹昭子さんの『バリ島不思議の王国を行く』に忘れられない一枚の写真が載っている。
まだ青年といってもよいくらいに若い父親が腰布のサロンを巻き、スリムで贅肉のない裸の上半身にしっかりと押しつけるようにして3、4歳ぐらいの全裸ではだしの男の子を抱えている。若い父親は横顔をこちらにむけ周囲に広がる田圃にまっすぐな視線をはなっている。男児はついさっきまでぐずっていたのかもしれない、顎をわずかにひき潤んだ目は上目づかいに手前左の方角を見つめている。
裸足の父親は畦道に立ち、すぐ後ろにひろがる田圃の左側は稲がすでに刈り穫られ、右側は明日にでも稲刈りがおこなわれるのかもしれないくらいたわわに実った黄金色の稲穂が画面はるか彼方にまで延びている。
暮れはじめた午後の光線が、親子の褐色の肌を輝かせている。
撮影は内藤忠行氏。

炎天下、一日の農作業を終えた父親は幼い息子と川で水浴びをすませたところなのだろうか、それともこれから疲れを癒すために水浴びに向かうところなのか。肌をぴったりとくっつけ合わせた父と子は夕暮れの迫る時間すくっと田のきわに立ち、父は遠いかなたに視線をむけている。
背後に見える田は、豊穣と恵みをシンボリックに示しながら画面を単純に二分している。それは時の経過をも同時に表してこのふたりの親子の将来に、なにか祝福さえ与えているように映る。
農村アジアであるならばたぶんどこでも見かけそうなしかし王道的な一瞬の光景を焼きつけた写真に思えた。


4

しばらくぶりにサン・マデから電話をもらった。
Ubudにあるスーパーマーケットで偶然会ったときから数えても1年以上たつ。

買い物籠にたくさんの樟脳玉を入れているのを見てびっくりしたら、
「ヴィラに出るネズミを追い払うためなんです」
かれは、いま、オーストラリ人の所有するヴィラでゼネラルマネージャーをしている。棟数は多くはないが責任をもたされ忙しくしているようだ。ほかにも、新規で営業の始まるヴィラで雇われるスタッフ指導の要請があれば、フリーランスの立場で引き受けたりしているらしい。
「ああ、ネズミね。うちでもそれやったことあるけどまったく効果なかったよ。粘着シートが確実だと思うけど」
しかし、生きているネズミがかかっている仕掛けは客には見せられないと、言われてみればそのとおりだナと納得する返事がかえってきた。
それではまたという挨拶を残して、かれはレジに急いだ。

2か月前に相談があると言って訪ねてきたのは夜も8時を過ぎていた。仕事の帰りに立ち寄ったわけだが、その前に「ビールでも買っていきましょうか」と携帯にメッセージがはいっていた。

いまの仕事を辞めて事業を起こしたいのだという。
問題は収入なのかなとたずねると「もっと家族の相手ができる時間がほしい」というのが理由だった。マネージャーの任務は毎晩遅くまで拘束され、休みもままならないらしい。中学生になったばかりの長男を筆頭に、下にふたりの男児をかかえている。
そういえばかれは結婚以来、9年ほど家を空けがちにしていた。カパルプシアール(豪華客船)のクルーとして米国をベースに働いていたのだ。何か月かの定期周遊航海ののち2か月ほど帰国し、つぎの契約をかわすとふたたび米国に旅立つ、というよりも出稼ぎに海外へ渡ると言うべきか。
その間に、3人の子息をもうけている。遠くはなれた家族を思い酒で気をまぎらわせているという内容の愚痴をその頃メールで聞かされたことがある。
クルーの仕事を最終的に終え、ヴィラマネージャーの仕事についてすでに⒋、5年経つのではないだろうか。
年収は、円に換算すれば100万近いのだがかれにいわせれば「かつかつ」なのだそうだ。というのは、実家の経済までかれの負担になるからだ。

かれの両親にはもうずいぶん前だが2度か3度お目にかかっている。トラック運転手をしているという父親は、小柄で痩せていてこういっては申し訳ないが「風采のあがらない」印象をもった。その、風采のあがらない父親が「浮気をして家に金をいれない」という深刻な話を聞いたのは、サン・マデがまだ結婚する前だった。
当時のわずかな給料をさびしい思いをして母に分けていた時期もあった。
そもそも成績優秀だったかれが大学進学の希望を断ちきられたのも、やはりこの父の「気まぐれ」だった。
学年トップのかれが進学するだろうという予想は誰もがいだいていた。父親だってその気でいたはずだが、いざその季節がやってくると突然かれは用意していた金をすべて「家寺」の改修工事の費用につかってしまった。
じぶんよりもはるかに成績の劣る同窓生たちが、経済的な余裕のおかげでみなこぞって大学にすすんでいく姿をかれはただ絶望とかなしみの思いをもってながめていた。

「それでも、父を恨む気にはなれない」とかれは言ったことがある。

仕事を終えて帰宅した父につれられよく田園を散歩したそうだ。手をひかれ、いろいろな話をしながら父と共にいた時間の記憶、父のぬくもりそのものがかれには至福の経験だった。
そんなふうに「幸せ」をあたえてくれた父への感謝が、どんな感情よりもさきだってかれのこころの中にある。
だからかれは父を恨む気はないと、静かに語った。