2009-01-01から1年間の記事一覧

続々・オレオレ(おみやげ)

冒頭に書いた「カーゴ・カルト(積荷信仰)」は厳密にいえば、英独仏の植民地下にあったニューギニア、メラネシアで19世紀末から発生、第一次・二次世界大戦間にピークに達し、一部地域では近年までつづいた宗教運動である。 植民地支配に対する武力的抵抗が…

続・オレオレ(おみやげ)

日本からの到着便がングラ・ライ空港に着き、荷物を受け取ってから税関を通り抜けるとき、昔はよく税関の職員に「オレ・オレ」と要求されたものだった。 なにを寝言いってるんだ、と取り合わないでいたが、あのセンスというのは理解できなかった。たぶん、本…

オレ・オレ(おみやげ)

いまN.ミクルホ・マクライの『ニューギニア紀行 / 十九世紀ロシア人類学者の記録』を読んでいる。 1870年、24歳の若きマクライがニューギニア北東海岸で15か月にわたって行なった第1回目の人類学調査から、三度にわたる滞在の日々を綴った記録である。学術…

タガスの家の怪 3

その老人はベランダに腰をおろし、庭にむかった。汚れた白い頭巾をかぶり、その頭巾からは白髪がはみだして乱れていた。 スタッフがつれてきたのはLさんではなく、ほかのバリアンだった。Lさんには、この種の「透視」はできないと断られたそうだ。代わりにや…

タガスの家の怪 2

前年暮れに感じていた「不吉な予感」は、年が明けてまもなく“かたち”となって現れてきた。 バリ人の世界観をあらわすことばを借りて言えば、スカラ(目に見える世界)とニスカラ(目に見えない世界)のふたつの次元にわたって、予感が“かたち”となって浮かび…

タガスの家の怪 1

プリアタンのタガスの借家には、2001年から‘04年の初めまで住んでいた。 「バリの犬たちと出会う 2」で少し触れたように、この家ではちょっと奇妙な出来事がたびたび起きた。とくに、2002年後半から2003年にかけてがピークだった。 こういう話題をどの程度客…

一日観光から

先日、日本からやってきた友人らにつきあって久しぶりに観光気分にひたった。 「きれいなお寺が見たい」というリクエストがあったので、バンリのケヘン寺院、タンパクシリンのティルタ・ウンプル、それにちょっと異色のグヌン・カウィを選んだ。 こういうプ…

チェリーの病気

しばらく犬の話がつづく。 いまの日本のペット化された犬たちの姿は、かつての日本の犬とは大いに異なっている。犬種が圧倒的に変わったのと、飼われ方が過去の「放任主義」からときには過保護とさえいえそうな、見方によっては、人間と犬のどっちが「ペット…

バリの犬たちと出会う 3

プートラは去ってしまったが、メス犬のデウィはぼくのもとにとどまった。 この犬は、ぼくがバンジャル・カラーにいるときに、隣人、といっても数十メートル離れた場所に住んでいた、バリニーズの一家が飼っていた子犬だった。ギアニャールの市場で拾われたそ…

デウィの受難

デウィがまだ子犬のとき、まるで肢の長いネズミのように走りまわっていたころに、空気銃で後ろ肢を撃たれたことは前回書いた。すぐ隣に住んでいた木彫り職人の仕業だった。たぶん、作業場にあった木彫りを齧(かじ)ってしまったのだろう、とぼくは想像した。…

バリの犬たちと出会う 2

タガスの借家は、路地を入って2軒めでそれより先には空き地が、その奥は集落がかたまっていた。 路地をひとが通るたびに、プーがやかましく吠えるのが気になった。カラーで住んでいた家は、集落から離れた田んぼ沿いに建つ一軒家で、周囲にはまだ5軒の家し…

バリの犬たちと出会う 1

はじめて犬を飼ったのは、‘98年、プリアタンのバンジャル・カラーに住むようになってからだ。虎のような縞のあるオスのバリ犬で「プートラ」と名づけた。「プートラ」はインドネシア語で「王子」「男の子」という意味で、「虎」にひっかけるつもりもあり、こ…

Pの姉が駆落ちした話

いま工房スタッフのひとりとして働きながら、ぼくの家に同居しているのが21歳のPである。8年間働いていたMとは従兄弟にあたり、Mが5月に辞めるのに替わって仕事をすることになった。引き継ぎの必要もあり実際には2月から住み込んでいる。 ある友人に言わ…

ふたつの医療事情

誤診や医療ミスはどんな国でも起きる。日本でも大きな医療ミスは訴訟の対象になり、社会的な関心を呼ぶ。医師の過失がみとめられ、免許取り消しの処分が行われたという決定もニュースになったりする。 昨日書いたジャカルタの話、病院が元患者を告訴したケー…

「誤診」をめぐって

ジャカルタで発行されている日系紙「じゃかるた新聞」の一面に、「SNS 正義のコイン 病院側が訴訟取り下げ 庶民パワーで主婦勝利」のタイトルが掲げられていた。 少し前から、TVニュースでも、名誉毀損でオムニ国際病院から告訴されていた主婦プルタ・ムルヤ…

覚え書き・バリ人の微笑

‘92年に初めてバリを訪れた話は前々回に書いた通りだ。そのとき出会った「謎の微笑」にライターのMさんとともに感嘆し、その意味もいまは理解できるようになった。 その‘92年の滞在中に、ぼくらはデンパサールのクンバ・サリ市場を取材の目的で訪ねた。メイ…

続・バリ人の微笑

いま、ぼくの工房では、3m四方の紙、4m大の紙をつくるのは当たり前になっている。保存してある紙のなかには、幅2m、長さ20mというバナナペーパーもある。手漉き紙としては、きっとギネスブックに載ってもおかしくないし、ギネス登録をめざすならさらに長…

バリ人の微笑

初めてバリを訪れたのは‘92年1月だった。バリを基地にしたマグロ漁の取材が目的で、ライターのMさんとともにベノア港を中心に歩いた。 3日のインターバルをとり、チャーターしていた車でウブッドに向かった。当時の交通量は、ほんとうに少なかった。ロンボ…

昨夜来たニョマン

ちょうど蕎麦を茹でようとしているところへ、チュルックのニョマンがやってきた。 「ニョマン、晩飯はすんだ?」と聞くと「うん」と返事があったが、「日本蕎麦だけど、いっしょに食べるかい?」ともう一度聞いてみたら「食べる,食べる」と繰り返してかれは…

ふたつの訂正

11月30日付けのブログのなかで、インドネシアで毎年5月に実施される「全国共通テスト」は来年から廃止されると書いたが、続報によると、文部大臣は廃止の噂をはっきり否定し来年も継続して行うと語ったことが、12月3日付けの新聞に載っていた。 廃止の噂が…

隣人たち 3

先日、隣人をテーマに、バリでの経験を書きながらじつは頭の片隅にいつも思い浮かべていたのは、子どもの頃の東京下町の、ぼくが育った地域の隣人たちの思い出であった。 こどもは物理的にも心理的にも、おとなのつくった境界を自在にこえて動きまわれるから…

ダブル・スタンダード

先週はめずらしく外食する機会が多かった。いちどは、ジャカルタから来た2組の建築家夫妻と5人で、ウブッドでも評判のスペア・リブ専門のレストランで夕食をともにした。 かれらはクリスチャンなので、豚のスペア・リブは問題にならない。ジャカルタでは味…

今日という一日

昼寝もできないくらいの暑さがつづいているが、きょうはいささか疲れていたので久しぶりに午睡のひとときを味わえた。 3週間ほど前からつくりはじめているウォールペーパーの仕上げと、先週の土曜日に香港から来たカナダ人デザイナーSとの共同作業が始まっ…

続・家を建てる

緊急避難の意味合いで家を建てるのは、いうなれば仮の宿を求めるのに等しい。だから「設計思想」(仮の宿であっても、設計思想はあるのだ、これが)はきわめてシンプルで、一にも二にも「雨風をしのぐ」という文字通り緊急避難的な発想から出発している。 譬(…

マス村に引っ越す

引っ越しは、じつは好きなのである。前後の、あの煩雑な作業や新規の手続きの面倒くささを考えても、やはりこころは浮き立つ。たぶん、リセットの感覚が心身を活性化させるからに違いない。 ただ、ぼくの場合(ひとに尋ねたこともないので、ぼくだけの「場合…

家を建てる

昔から、家を建てるつもりはなかった。バリにかぎらず、どこにも家など建てるつもりも、欲しいとも思わなかった。 理想はカタツムリの殻なのだ。それが無理だから、レンタル・ハウスをバッタのように転々としていたわけだが、ここに至って(というのは5年前…

隣人たち 2

ここに住みはじめた2004年初めには、隣人といえば先に書いたレストラン(南側)と、東のはずれ、道をはさんだ場所にバリニーズの一家が、そして、ウチからみれば裏にあたる西側には、アメリカのチェーン家具店ピア・ワン/Pier 1 に卸す雑貨を製造しているSと…

隣人たち 1

いま住んでいる土地を15年契約で借り工房を建てたのが、2003年12月の終わりだった。翌年の2月には、簡素な家も建て住みはじめた。バリに来て6回目の引っ越しであり、つつがなく過ぎるならあと9年はここに腰を据えているはずだ。 隣のレストランは2001年に…

隣人愛とは?

昨日は午前10時半から午後5時まで、とつぜんの停電に見舞われた。週2回に増えた計画停電とはべつの、6時間半におよんだイレギュラー停電である。停電にレギュラーとイレギュラーがあるのもインドネシアらしくて笑ってしまうが、この電力危機の克服には、…

三たび、憑衣する子どもたちの話

今夜は満月だ。晴天がつづいているおかげで、きっと煌々とした月明かりに映える夜空になるだろう。バリの満月はうつくしい。地上の明かりが少ないぶんだけ、月の光の微妙な輝きがいたるところで観察できる、いや、楽しめるといったほうが適切か。 先月の満月…