タガスの家の怪 2
前年暮れに感じていた「不吉な予感」は、年が明けてまもなく“かたち”となって現れてきた。
バリ人の世界観をあらわすことばを借りて言えば、スカラ(目に見える世界)とニスカラ(目に見えない世界)のふたつの次元にわたって、予感が“かたち”となって浮かびでてきた、といえる。
タイトルの「タガスの家の怪」は、うえのふたつの次元のうち「目に見えない世界」に属する出来事といえるが、同時に「目に見える世界」での“混乱”をも体験したぼくには、スカラ / ニスカラと呼ばれるふたつの世界は、コインの裏表の関係に似ているのではないかと感じられた。
コインの表、すなわちスカラの世界の“混乱”の話を先にすると、この年2003年は、スタッフのひとりがぼくのバイクを盗んで遁走するという、腹立たしい出来事にはじまった。
これを序の口として、本番は、当時のビジネスパートナーがとつぜん叛旗をひるがえして立ち向かってきた一件だ。
結果をあらかじめ言ってしまえば、この年の6月に、ぼくは、それまでに築いてきたもののすべてを失った。その前に数度の話し合いをパートナーと重ねたが無意味だった。
この話し合いを『イソップ物語』風に語ると、ある日、海の中で蛸が鮫に遭遇した。襲いかかろうとする鮫を必死でひきとめ、蛸が言った。
「ちょっと待ってくれ、ボクの腕1本ではどうだろう?」
睨みつける鮫に、蛸はあわてて言いなおす。
「では、4本では?」
鮫は牙をむきだす。
「じゃあ、6本!」
蛸の懇願は、それが繰り返されるほどに、実効性のないのが明らかになっていく。初めから鮫は、蛸をまるごと食いつくすことしか考えていないのだから。
結果的に最後となった話し合いは、タガスの家の居間のテーブルを挟んで、差し向かいで行われた。
話の半ば、かれの言い分に反論するタイミングで、ぼくの言わんとするところをインドネシア語ではどう表現したらいいのだろう、としばらく俯いて考えこんでしまった瞬間がある。やがて、顔をあげ相手を見ると──。
かれの眼は不自然なくらいに吊り上がってカッと見開かれ、目前のテーブルを睨んで爛々と光っている。口の両端は裂け、頬の半ばまで引き上げられ、唇の隙間から白い歯が牙のようにのぞいていた。
すぐに般若面を思い浮かべた。こどもの頃に住んでいた家の玄関の壁にかかっていた般若面。嫉妬と憤りを凝縮させた女面。
しかし、あれはつくりものの面である。いま目の前にいる男は、生きた人間だ。これほどの恐ろしい形相が人間の顔の表情となって現れるのを想像するのもむずかしい。だが想像を超越して、ここにいまその形相がとつぜんかれの顔に貼りついている。しかも、面のように固まって。
ぼくは、かれの名前を呼んだ。二度、三度と。しかし、かれは全身かたまったまま、般若の形相を崩さずぼくの呼びかけも耳に入っていないようだった。
20秒ほどこの奇怪な状態がつづいたが、スッとかれの顔つきが変わりもとにもどった。かれ自身、どうやらその変化 ─ かれの顔相が般若面のように激変したのを知らないようだった。
このときに、ぼくはすべてを断念した。もはや、ことばの通じる相手ではない、と。
当時、工房はギアニャールの南、海岸近くにあった。パートナーとの関係は険悪となり、そして終焉を迎えることとなったが、その終わりの時まで、ぼくは片道40分の道のりを自宅からバイクで通っていた。
その日の朝も、自宅住み込みのスタッフMを後ろに乗せ、いつものようにタガスの家を出た。
マスにさしかかり、ある店の前を通ったときだった。もちろん、この時刻、開いている店などなかった。その店もガラスの引き戸は閉じられている。
眼の端に、左側の歩道上、数十センチの高さで石がいきなり飛んでくるのが映った。信じられないことに、石はとつぜん路上に出現したように見えた。そして、猛スピードでこちらに向かって飛んでくる。もちろん、視覚でとらえたのはほんの一瞬だ。
後ろのMが痛みに叫んだ、同時に石はぼくの左ふくらはぎにあたった。急いでバイクを止めた。七分丈パンツをはいていたMの左肢は直撃をうけ、わずかだが血が流れている。幸い傷口はちいさかった。ぼくはジーンズをめくりあげた。石のあたった箇所が赤くなっていたが、痛みは気にするほどのものではなかった。
宙を石が飛ぶ?
ぼくは、その店の横にある民家の入り口を入って「ごめんください」と声をかけた。奥から、中年の女性が姿をあらわした。ぼくが事情を説明すると、
「ああ、さっきウチの子が庭で鶏にむかって石を投げていたけど…」
その石が猛烈な速さでぼくとMの肢にあたったとは、およそ考えられない。
ぼくは、プンゴセカン村から来ているスタッフにLさんを呼んでくれるように頼んだ。Lさんは、ドゥクン(呪医)あるいはバリアン(呪術師)として有名な老人である。「ファルマコスの島」(『虹の理論』中沢新一)のインフォーマントとしても密かに知られている。
タガスの家で起きる奇妙な現象、そして、この路上に忽然とあらわれて飛んできた石─ぼくらの日常の意識では説明しがたい出来事を、いわゆる霊能者の解釈にゆだねようと考えたからだ。