Art Bali / Beyond Myths


会期終了まぎわの7日に、病みあがり途上で脱力したままのからだを背負うようにしてヌサドゥアまで出かけた。
多少の無理をしてでも来たかいがあったのは、なんといってもこれだけのボリュームとレベルの高いコンテンポラリーアートをバリで一堂に見るのは初めてであり、つぎにいつ見られるか期待するのはむずかしいからだ。




Heri Dono氏の Dinosaurs Spirit。カタログには"Water"というタイトルになっているが「水」ではなんのことやらわけがわからない。
両腕を横にもちあげた恐竜の尾をもつ男が三体並んでいる。頭部は牙をむきだした4つの口と一対の眼を4組それぞれそなえている。ヒトと恐竜のアマルガムのような存在。仏像に親しんだ眼からするとこの頭部から「阿修羅」を彷彿させられるが、阿修羅は三面だ。阿修羅とディノサウルスに共通するものはその魔性というかまつろわざる野性。ともに、いまだ進化途上のヒト科の生きもののこころやからだにその属性として宿りつづける、そのひとつの象徴がイガイガペニスではないか。原始的な武器を想像させるなんともまがまがしき風貌の男根。このイガイガペニスとは対照的なイメージを思い出した! ヨアン・カポーティの "RATIONAL"だ。こちらは睾丸が脳みそそのものの男性下半身像。男性性器には合理性のレッテルがふさわしいのか古代の弾投器のような武器にたとえるのがふさわしいのか、いずれにしても笑いを誘う造形感覚だ。


9月のはじめに知人の建築家がふたりのアーティストとつれだって訪ねてきた。そのうちのひとりがこのヘリ・ドノ氏だった。
初対面だったがこのときずいぶん話がはずんで、話題はいろいろと飛んだ。知日家の印象をつよくもったのだが、どういういきさつだったか仁王像の話になって阿形と吽形のちがいや呼吸の話などもした。
芥川の「河童」を読んでみたいというヘリ・ドノ氏の希望もどんな話の流れからだったか覚えていないが、かれらが帰ってからネットで検索すると意外にもインドネシア語に翻訳されている「Kappa」が見つかった。さっそく、そのURLを知人経由で送ったが、すでに読まれたかどうか?











8月25日からシンガポールのAsian Civilization Museum で開催されているArus Berlabuh Kita/ぼくらの辿るながれ の出展者 Budi Agung Kuswara君とかれの奥さんのシンガポール人Samanthaが、3月ごろから工房に通ってきて作品準備にとりかかりはじめた。写真家のサマンサの撮影した写真プリントとバナナペーパーをくみあわせ、それが船の帆のかたちをつくりアジアの海を航海する。その旅をするのはすべてがべつべつの国籍をもつ両親から生まれた子どもたちで、十数基にのぼるバナナペーパーの帆に漉きこまれた写真には豊かにアレンジされた民俗衣装に身をつつんだその子どもらの姿が写っている。
数か月におよんだその制作期間中、ブディ・アグンことカブルの助手役として足しげく工房に通ってきていたのがWayan Upadana君だ。最初に、ジョグジャの美大時代からの友人と紹介された。
中盤からカブルが頻繁にそして長くシンガポールにでむいている間、ウパダナがひとりで工房にやってきてウチのスタッフとともに黙々と作業をしている姿をよく見かけた。作業結果を写真に撮って、シンガポールにいるカブルに送り指示をあおぐ、というやりとりをしているのを横から見ていた。
手伝うとかサポートする行為にはんぱではない意気込みが、しかしそのやや飄々とした彼の面持ちからは決して重い空気はつたわってこないのだが、着実にひとつひとつのプロセスをこなしていく安定したその成果に、カブルすごくいい友人を持ってるなと感心しながら観察していた。


作業最終日には、ウパダナもカブルもそれぞれ伴侶と子どもをつれてやってきた。カブルはひとり娘、ウパダナには双子の女の子が付き添って。終了記念に2家族そろってどこかに遊びにいくのかなと想像した。



そのWayan Upadana の作品「Manusia Imaji Air dan Cahaya/水と光のイメージのなかの人間」が展示されていた。
ウルワツの荒い波のおしよせる水際をバードアイの視点から撮影した動画が作品のベース部でエンドレスにながされ、その波をいくたびも繰り返し浴びている多くの老若男女が裸の上半身を水からだしている。ある者は祈りを捧げ、ある者は両手をあるいは片腕を前方にさしだし、胸に手をおき、ただぼんやりと首まで水に浸かっている者もあれば放心したように立ちつくしている者もいて、そのような群像がおなじひとつの方角にむかって並んでいる。ひとびとはいっせいに波に洗われ、その頭上にふりそそいではやがて闇となる光のシャワーが、朝を迎えて夜に沈みこむそのような日々のリズムをなぞるように繰り返しながら、群像はひたすらこちらに顔をむけ並んでいる、
池澤夏樹が「水のアジア」と名づけ、水に浮かぶように存在する湿潤アジアを描写したのは『花を運ぶ妹』だったと思う。その舞台となったのがこのバリ島で、バリ島に生をうけた人びともまた水とは深く結ばれて一生を過ごす。
農業生産の文字通り命脈として島じゅうをむすぶネットワークとなってめぐる人工水路システムは、世界遺産の対象ともなっている。島の宗教バリヒンズーイズムも「水の宗教」と言い換えてもおかしくないくらいに、水の「演出」に満たされた宗教ないし儀礼で、寺院祭礼から日々の人びとの祈りの場面まで「聖水」は人びとの身体に親しいのだ。
ワヤン・ウパダナの作品は、そうしたバリの人びとの暮らしあるいは宗教的民俗的習慣のなかで「ムルカット」、沐浴といわれる修行にひとしい姿を描いている。生まれてから死ぬるまでの長い時間、ほんとうに数えきれないほど身体にふりそそがれた水のちからは彼らの魂の浄化をも約束する。









会場内を一巡し、とりあえず外の空気を吸いに出口をでたところで、Ketumu Project/出会いのプロジェクトメンバーの若い女性Dにばったり会った。
ブディ・アグン・クスワラことカブルは、バリでもっとも注目されるソシアルアートの若き旗手でもあり、彼が推進する2つのプロジェクトのひとつがこのKetumu Projectで、シンガポールでの展示もこのプロジェクトの活動の一環である。
Dは会場整理係の一員としてプロジェクトから派遣されているらしい。
その彼女にこの展覧会のレベルの高さや粒ぞろいの作家たちの作品のおもしろさを感想として話していたら、それでもやはり場所的にヌサドゥアはあらゆる地域から遠く、ひと集めがたいへんだという返事が返ってきた。


入場料のひとり15万ルピアも高いしね。
6月にジャカルタにあるMacan Museumで開催された草間彌生展を見にいったが、やはり入場料はそのくらいだった。首都ジャカルタの経済条件や展覧会の希少性からすれば15万ルピアは決して高いとは思わないが、バリではいわゆるツーリスト価格に類する設定かもしれない。


「でも、会期中の毎週火曜日には身分証さえ提示すれば、地元のひとは無料なの」
と彼女が言った。そういえば、どこかでそんな情報を目にしたような記憶があった。当然だよとその時に思ったのをおぼえている。

「それで、きのうは最終火曜日だったので1000人もおしよせて、行列つくったのよ」
へぇ、それはすごい! と驚いていると、

「Bapak、きょう来てラッキーだったわ!」
とわらいながら彼女が言った。