タガスの家の怪 3

 その老人はベランダに腰をおろし、庭にむかった。汚れた白い頭巾をかぶり、その頭巾からは白髪がはみだして乱れていた。
 スタッフがつれてきたのはLさんではなく、ほかのバリアンだった。Lさんには、この種の「透視」はできないと断られたそうだ。代わりにやってきたS老人は無言のまま、ときどき掌にのせた大きな青緑色の玉をじっと見ている。
 視線を庭にもどし、しばらく窺うように右、左と見てからふたたび玉を覗きこんでいる。かれが「透視」を始めて5分くらい経過したころ、おもむろに顔をあげて囁いた。
「あそこに」
 かれは敷地東側の井戸のある方角を指した。
「海からやってきた魔物がいる」


 話は前後するが、前年12月初旬にぼくが一時帰国するちょうどその日の夕暮れ、若い友人夫妻がぼくのもとを訪れた。1年のバリ長期滞在の後、これからアジアへの旅に出るので「お別れの挨拶」にみえたのだ。べつの友人を介して紹介されたかれらとは、短い間だったが親しく交わった。
 奥さんが、感受性の強いひとで、その感受性は時にはニスカラ(目に見えない世界)の現象にまでおよぶちからをもっていた。と同時に、すぐれて理知的でもあり、だからこそぼくには信頼のおけるひとであった。
「ナルセさん、差しでがましいようだけど、この家には“邪悪なエネルギー”が潜んでいます」
 この日、ぼくの留守中にかれらは一度訪ねてきていた。そのとき、彼女はじぶんのからだを支えていられないほどの強烈なエネルギーを、不快で邪悪なエネルギーを感じたのだという。
「あそこの、井戸のあるあたりに“なにか”がいます」
 彼女は、ぼくが日本からもどったらぜひともこの家の「お祓い」をするようにと勧めてくれた。

 
 バリでの「お祓い」は、ふつう「ムチャルゥ」と呼ばれている。これは毎年決まった日に、日本流にいえば「家内安全」を祈願するもので、数年に一度はかなり大がかりなムチャルゥがどの家でも行われる。
 バリアンのS老人に指示されたのは、このムチャルゥではなく「サムブレー」という別のお祓いの儀礼で、黒色の鶏を殺し、その血を魔物への供物として捧げるものであった。
 これもまた、バリ的なものの考え方の特徴なのだが、ぼくの家に「海からやってきた魔物」が棲みついているとしても、その魔物を追い出すような真似をしてはいけない。魔物に限らず、さまざまな精霊たちにこの世界は満ちているのだが、こうした「生きものたち」がぼくらの日々の生活に危害をくわえたり邪魔をしたりしないよう、お供え物を捧げるのみである。だから「お祓い」とうよりは「供犠」といったほうがより正確であろう。
 共存─これが、バリの世界観の重要なポイントなのである。ぼくとしては、仮にそんな魔物が身近にいるならばさっさとお引き取り願いたいものだと思ったのだが、それは禁じ手である。


「サムブレー」はカジャン・クリオンの日を選んで執り行われた。残念ながら、このときの儀礼の詳細はぼくの記憶に定かではないが、儀礼を執行する僧侶とその手伝いをするぼくのスタッフやほかのひともやってきて、ずいぶん賑わっていた気がする。ただひとつ、鶏の首を掻き切って流した血の記憶は確かにいまでもある。


 この供犠の儀礼がおこなわれた日の夜、ぼくは奇妙な感覚を味わった。
 夜、買い物からもどり別棟の台所に食料品をもって入った。ドアは背後に開け放たれていた。食べ物を調理台においたそのとき、そのドアのあたりから何かが近づいてくる気配を感じた。背後から重くのしかかってくる、いま呼吸している空気とは別物の濃厚な空気。
 鳥肌がたった。
 ぼくは急いで食品を整理し、冷蔵庫に押し込んでから台所をでた。住まいのほうに向かって歩いていると、その気配はふたたび追いかけてくるように背後に迫る。ドアの鍵を開け、リビングに入る、濃厚な空気はたちまち部屋にひろがった。着替えに寝室に入ると、同様に空気が変化した。
 いまや、家中に、濃密な空気が充満している。
 そこへ、デンパサールの英語塾からMが帰ってきた。じぶんの部屋で着替えてからリビングに帰宅の挨拶をしに入ってきた。
「M.この家のなか、なにかヘンだと思わないか?」
 ぼくは聞いた。
「ええ、おかしいです」
 それ以上の会話は、あえてしなかった。けっきょく、いつもとはまるで違う空気感は、床につくまでつづいた。


 そして数日後の日曜日の昼過ぎ、家にひとりでいたぼくはべつの部屋に何かを取りに、居間をぬけベランダに出た。そのとき、左手のMの部屋の閉め切ったガラス窓から、巨大な人間が半身をヌッと押し出してでてくるのが見えた。長い髪を後ろにたなびかせ、キッと前方を睨んでいる横顔がまるで昼間の幻灯写真のようにぼくの前にぼんやりと浮かび上がり、やがて消えた。
 Mが目撃した巨人はこれだったのだな、とぼくは思った。


 その後、ここを出るまでの1年近く、奇怪な出来事はこの家では二度と起きなかった。