隣人たち 3

先日、隣人をテーマに、バリでの経験を書きながらじつは頭の片隅にいつも思い浮かべていたのは、子どもの頃の東京下町の、ぼくが育った地域の隣人たちの思い出であった。
 こどもは物理的にも心理的にも、おとなのつくった境界を自在にこえて動きまわれるから、当時のぼくもずいぶんあちこちと近所の家に出入りしていた。まだ小学校に入る前の頃だ。幼稚園を中途でやめたあとは、ひとりでいる時間が多かった。絵を描くのに飽きると、順繰りに近所の家をめぐり歩いていたのだろう。当時のおとなたちは、よくこどもの相手になってくれたものだ、と思う。
 Sさんの家には、マコトさんというお兄さんがいた。下にいたふたりの弟はまだ小学生で、かれらが学校から帰ってくれば、ぼくの遊び相手になってくれた。マコトさんは、その頃、もう20歳ぐらいだったろうか。重いゼンソクを患っていたので働くこともできず、いつも家にいた。細いからだを寝間着にくるんでいるときもあれば、ワイシャツにズボンという格好でいるときもあった。
 Sさんのおばさんは、ぼくが行くとかならず丈高の食器棚の上にある缶を背伸びしてつかみ、中に入っているお菓子を紙につつんで食べさせてくれ、マコトさんは縁側でぼくに手製の細工を見せてくれた。いまでも記憶にあるのは入れ子の紙の箱だ。ボール紙で組み立て千代紙を丁寧に貼りつけた、手に載るほどの大きさの箱をあけると、またきれいな箱が中にあった。どんどんちいさくなって、吹けば飛んでしまうようなちいさな箱が最後に残った。
 マコトさんが消えるようにいなくなってしまったのは、きっと病院で最期を迎えたからなのだろう。かれの声が記憶に薄いのも、いつも静かだったからにちがいない。着物の裾からはみだした細い脛や、おぼろげな立ち姿だけがいつまでもマコトさんの印象として残っている。
 
 静かだったSさんの家とは対照的だったのが、Hさんの家だった。ぼくと同年の女の子を頭に、2歳下の双子の兄弟、さらに下にまだ赤ん坊だった男の子がいた。家のなかはすべてのものがひっくり返ったように乱雑だったし、双子の兄弟はいつも叫びながら狭い部屋のなかを走りまわっていた。Hさんのところでは、ときどき夕飯までいただいた。白いご飯にじかに生卵を落とし、おばさんがグシャグシャグシャと一気にかきまぜ醤油を少し垂らして「これ、キヨシちゃんの」と言いながらぼくの前においてくれる。ウチの食べ方とはちょっと違っていたけど、おいしさは格別に思えた。
 どうも、思い出の中には食べ物にかかわるものばかりがでてきてしまうのは、よっぽど腹をすかせていた幼年時代だったのだろうか? そんなこともなかったと思うのだが、つぎに思い浮かぶのもやはり食べ物にまつわるのだから、なんともいえなくなってくる。
 ただの主婦だったはずのYさんのおばさんが、ある日、姉さん被りに白い割烹着をつけ屋台のおでん屋さんに転身したのもこの頃だ。すでに50に手の届く年齢で、まるまるとした色黒の顔に縁なしの眼鏡をかけていた。10時頃に、屋台の引き棒につけた大きな鈴をチリリンと鳴らしながら出発し、日暮れ前にはもどってきた。おばさんの姿が見えると、こどもらはいっせいに屋台に駆け寄った。いつでも、ほとんど売り切れているのだが、ほんのわずか残った具をぼくたちに分けてくれるのだった。
 このおばさんのおでんが、ぼくにとってはおでんの味の原点で、いまだにこれよりも旨いおでんには巡りあったことがない。
 
 奇妙なひともいた。新興宗教にのめりこみすぎたのかもともとの資質なのか、とつぜんの幻覚に襲われ「狐が屋根のうえを走っていく!」と叫び声をあげ、すでに寝静まった近隣のひとびとをたたき起こしながら、とびまわったおばさんがいた。おでん屋のおばさんの隣家で、同姓だった。
 まわりのおとなからこの話を聞かされたのか、それともほかのひとびとと同じように、このおばさんが叫びながら走っている姿を目撃したのか曖昧だが、暗闇のなかを一匹の白い狐が家々の屋根を跳躍していくうしろから、ちいさな紅い炎がゆらめきながら追いかけていくイメージが、それ以来こころに焼きついてしまっている。髪をふり乱したおばさんが、屋根の上の狐を指さしながら叫び声をあげている姿も、そのイメージについてまわる。
 しばらくしてから、ご主人が近所の家をまわってひと包みの牛肉をお詫びに配って歩いた。玄関先に立ち、頭を下げていたおじさんが置いていった包みを開けると、竹皮に包まれた薄切りの肉がきれいに並んでいた。おじさんは肉屋さんで働いているのだと、そのとき母に教えられた。
 このおじさんの家のUちゃんはぼくよりも2歳年長だったが、仲はよかった。おばさんがあんなふうに深夜、気がふれたように走りまわったのをぼくらこどもたちはみな知っていたが、だれもそのことを口にしなかった。Uちゃんが、ひどく恥じている様子がありありと見てとれたからだろう。
 その後も、Uちゃんの家の前の通りを歩いていると、手太鼓を叩きながら経を唱えているおばさんの大きな声をよく聞いた。次女のFちゃんが知恵おくれだったので、ああいうふうになっちゃったんだ、とおとなの口から聞かされた。
 隣人たちは、みな仲がよかった。とくに女性たちは、茶話会と称しまた忘年会といっては、よく集まっていた。近所でそろって夏の海にでかけたりもした。親が同伴できないときにはこどもだけを託して、房総に海水浴に行った。いま思えば、おとなたちにたっぷりと時間があったのだろう。
 テレビが各家庭に入り込み、こどもたちも成長した60年代半ばにはそうした親しさも嘘のように消えていった。時代もひとも変わっていったのだろう。

 バリのこどもたちを見ていると、かつての日本のこどもたちの姿を思い出す。いつでも群れをなし、年齢も性別もなく年上のこどもが先導して遊んでいる。毎年12月も末近くになると、何人ものこどもたちがウチにあるベニノキの実を取りにやってくる。この実を指でつぶすと滲んでくる、紅い染料を髪に塗って遊ぶのだ。
 そのこどもたちの姿が、幼かった頃のぼくの遊びともだちの面影ともかさなり、また、当時の隣人たちの懐かしい姿が自然とよみがえってきたりするときもある。いつか、バリの隣人たちは記憶のなかの隣人たちとともに、並んで写っている写真でも見るように懐かしく思い出すときがくるのだろうか。