隣人愛とは?

 昨日は午前10時半から午後5時まで、とつぜんの停電に見舞われた。週2回に増えた計画停電とはべつの、6時間半におよんだイレギュラー停電である。停電にレギュラーとイレギュラーがあるのもインドネシアらしくて笑ってしまうが、この電力危機の克服には、あと8か月要するという今朝の報道をみたら、そうそう笑ってばかりもいられないと考えこんでしまった。
 バリに住みはじめたころは3日や4日にわたる停電があたりまえのように起きていたから、「それにくらべたらマシさ」と考えるようにしてとりあえず現在の不都合をみずから慰め、納得させるしかない。それが現実的な反応に違いない。
 そういう点ではぼくもいまや現実主義者となり、目くじらも腹もたてず、電気の回復するのを何時間でもじっと待っていられるようになったのだから、人間ができたというか肝が据わったというか、じぶんでじぶんを褒めてあげたくなる。
 昨日のように、前触れなしの停電でいちばん困るのは水がまったく使えなくなる点だ。モーターを作動させる汲み上げ式の井戸だから、工房での仕事も家事もいっさいストップしてしまう。
 朝いちばんの仕事をかたづけ、つぎのステップに入ろうとした時点での停電だったので、出鼻をくじかれた。紙をつくるのに水は欠かせないのだ。電話で確かめると、午後5時まで回復しないという。どうもバリ全域におよんでいるらしい。しかたない、今日はもう、一日なすすべもなしと諦めるしかないと覚悟した。
 昨日は特別暑かった。どこに身を移しても熱気に追い回されている感じだった。シャワーでも浴びたいと思っても、手さえ洗えないのだから、これもじっとガマンするしかない。暑くて昼寝もままならず、本を読む気にもならず、なるべく日なたに出ないよう家のなかでじっとしていた。
 すると、毎度ながら気になりだすのは、なんといっても隣のレストランの大型発電機ががなりたてる騒音なのである。旧式のやつだから音がやかましい。まるで近場をヘリコプターでも旋回しているような音だからたまらない。発電機の周囲を防音壁で囲むなどという常識はそもそもはじめからないから、むきだしの発電機は我が物顔の爆音をたてつづける。
 すごいのは(感心しているわけではない)、発電機の振動が周辺の壁や塀にぶつかる結果、大共鳴音を発生させるのだ。本体のバカバカバカバカッという機械音とはべつに、グワォ〜ン、ムワォ〜ンとあたりの空気を震わせる音が頭のなかにダイレクトに伝わってくる。
 繰り返すが、昨日はとりわけ暑かった。サウナにこもっているように暑い。ジトッと汗ばむからだをバカバカバカバカッの轟音が直撃し、脳にはグワォ〜ン、ムワォ〜ンの不気味な共鳴音が侵入してくるのだ。
 暑さにサボテンのトゲが生えたようなものだ。拷問と呼ぶしかない。6時間半におよぶゴーモン!
 キリストはほんとうに「汝の隣人を愛せ」と言ったのだろうか? なぜかキリストの言う「隣人」というのは、すごく静かなひとのような気がするのだが、それとも、やかましい隣人であっても愛せと命じたのだろうか? 隣人のことなどち〜っとも考えていない、そういう隣人でもとにかく愛せ、とのたまったのだろうか? 自分さえよければ、ひとの苦痛も屁のカッパと気にしない隣人にも愛を、と教えを垂れたのだろうか?
 昨日は、こうして昼間の大半を、ぼくは「隣人愛」というテーマについて無理矢理考えていた。