Pの姉が駆落ちした話

 いま工房スタッフのひとりとして働きながら、ぼくの家に同居しているのが21歳のPである。8年間働いていたMとは従兄弟にあたり、Mが5月に辞めるのに替わって仕事をすることになった。引き継ぎの必要もあり実際には2月から住み込んでいる。
 ある友人に言わせると、Pはダルビッシュに似ているのだそうだ。あのダルビッシュに、である。また、別の友人が女ともだちと訪ねてきた折に、Pをひと目見たその女性は「気絶しそうになるくらいカッコイイ!」と、あとから言っていたそうだ。
 そうかなあ、とぼくは思うけど、他人事とはいえ褒めていただくのはうれしい話だ。
 そのPの母親が、息子のカッコ良さとは関係なく、ほんとうに気絶してしまった。10月の終わり頃だった。昼休みにかれのもとに兄から電話があったらしく、Pは神妙な面持ちでぼくに暇乞いをもとめに来た。
「お母さんが気絶したというので、家に帰ってみます」
 気絶 !? いったい何があったのかと尋ねると、よく分からないという。かれにも母親の様子は詳しく伝わっていないらしく、とるものもとりあえずかれはバイクに乗ってカラガッサムの実家に帰った。
 
 翌日、早朝6時頃にもどってきたPに「お母さん、どうだった?」と聞くと、
「お姉さんが、カウィン・ラリー(駆落ち)してしまって、そのショックで気絶してしまったんです。もうだいぶよくなったけど、まだ、あまり口がきけない状態なんです」
 駆落ち! そうか、駆落ちか。バリニーズの結婚のスタイルのひとつに「略奪婚」というのがあるのは、本で読んで知っていた。「略奪婚」と訳されてはいるが、原語の意味からは「駆落ち婚」でいいのではないかと思われる。
 当事者同士は当然ながら、親も友人たちもふたりの仲はすでに「公認」していて、未来の新郎が未来の新婦を連れ去り、周囲があわてふためいてふたりの行方を探しまわって見つけたあげく、婚姻の段取りへとすすむ。あくまでも、正式な結婚にむけてのやや芝居がかった手続きのひとつ、と理解していた。それも、古い時代のスタイルなのだが。
 Pの言った「駆落ち」もその手続きの話かと思ったが、なぜ母親は気絶してしまったのか、まさかそれまで芝居であるはずもない。
「相手の男性は誰だったの?」と尋ねると、「誰も知らないんです」とPは言う。
はっ? 家族の者が誰も知らない相手?
「はい、いままで姉も会ったこともないらしいです」
なんだ、なんだ、それは !? 駆落ちじゃなくて誘拐じゃないか!
「もう、相手の家で結婚の儀式をしてしまったんで、それでウチの家族もみんな驚いてしまったんです」
 家族だけじゃない、ぼくだって驚くよ。そんなことがあり得るのだろうか。
 このPはいつもホワ〜ンとした話し方をするので、ぼくには要領をえないときがある。おつむがゆるいのではなく、性格がホワ〜ンとしているのだ。ときどきかれの言っていることが、風のそよぎのように見えなくなるときがある。それで、この話もけっきょくぼくには曖昧なままだった。

 数日後に、Mの弟のKdがウブッドに用事があってカラガッサムから出てきた。ついでにぼくの家にも寄った。
 そうだそうだ、ぜひあの話を聞かなければ、とかれにPの姉の話を根掘り葉掘り聞いてみた。
「いやあ、みんなびっくりしましたよ」
 Pの姉は、Kdの母親が営んでいるちいさなワルン(簡易食堂)で働いていた。朝早くから夕方まで仕事をし、終われば真っ直ぐに帰宅していた。その日、Pの姉が姿をくらましてしまった日も、朝から彼女の来るのを待ちつづけていたKdの母親は、いったいどうしたのだろうと心配していた。
 その日の昼前には、「新郎」側の知人が駆落ちの事実を伝えたらしい。「新婦」側はその男についてはなにも知らない。どこの誰かも知らなかった。母親が気絶してしまったのはこの時点で、すぐにPは兄から連絡を受けたのだ。
 Pの姉が結婚に同意していたとしても、いったいかれらはどこで会っていたのかと家族の疑問は深まるばかりだったそうだ。
「たぶん、かれがワルンに食事に来ていたんだろうと思いますね。彼女の行動範囲からすれば、それしか考えられない」
 とKdは推測し、おおかたの者もそう思っているという。
「でも、ワルンに来ていたとしても、忙しい彼女におしゃべりする暇なんてほとんどないはずなんですけどねえ」
 と、Kdは首をかしげる。またまた、なるほど、とうなずける確実な話もなく、腑に落ちないままだった。
 
 まわりのすべての人間を驚かせたPの姉の駆落ちは、ようやく家族の同意を得て、正式な結婚披露宴がめでたくおととい行われた。実家に帰っていたPが昨夜もどってきたので、ふたたび根掘り葉掘り聞きだしてみた。
 やはり周囲の思っていたように、かれらの出会いは彼女が働いていたワルンだった。
「知りあってからどのくらい経っていたのかな?」
「3、4か月らしいです」
「ワルンで会う以外は、どこで会ってたんだろう?」
「ほとんど会ってないって」
「えっ、会っていない !?」
「SMSのやりとりだけだったそうです」
「!!!」
 Short Message Service、携帯メールである。Pもぼくも大笑いしてしまった。SMS が結ぶ恋──と言ってしまえばそうなのだろうが、ホントにいいの、それで? 
 どうもそれで構わないらしい。Pの話だと、お姉さんは実家にいたときよりも肥ったそうだ。新郎の両親も大切にしてくれているし、彼女のことをとても気に入っているらしい。
 彼女よりも年下の旦那は、牛飼いをしているという。Pによると「すごい無口」なんだそうだ。
 なるほど、だから、携帯メールで射止めるしか方法はなかったのかもしれない。チャカチャカチャカとキーを押してこころを打ち明け、駆落ちの相談までしている姿を想像するとおかしくなるが、やはり、ホントにそれでいいの? と気持ちのどこかにひっかかってしまう。
 ま、余計なお世話かな。