バリの犬たちと出会う 1

 はじめて犬を飼ったのは、‘98年、プリアタンのバンジャル・カラーに住むようになってからだ。虎のような縞のあるオスのバリ犬で「プートラ」と名づけた。「プートラ」はインドネシア語で「王子」「男の子」という意味で、「虎」にひっかけるつもりもあり、この犬にはピッタリの名前だと思った。一般的には「プートラ」は人名としてつかわれている。
 プートラ! と呼びつけて、すぐ近くに同じ名前のバリ人がいたりして、こちらを振り向いたりするのもなんだから、ふだんは、「プー」と呼んでいた。

 こどものときから犬はいつもぼくの身近にいたので、見知らぬ犬にもあまり警戒することはなかったが、バリではまったく違う。
 プリアタンに移るよりもだいぶ前のことだが、ある夜、ロットンドー村でささやかなパフォーマンスがあり、自転車ででかけた。自転車をバリ人の友人宅に預け徒歩でその会場まで行った。パフォーマンスそのものはあまりパッとせず、途中でぬけだしてふたたび夜道を友人宅にむかって歩いているときだった。
 とつぜん、けたたましい吠え声とともに左右に並ぶ家々の門口からつぎつぎと犬が路上に飛び出してきた。数は最初7、8匹いた。吠え声がやまないので、さらにつられて飛び出してくる犬たちが、道路の向こう10m先、さらに20m先に待ち構えている。
 うんざりすると同時に、当然、恐ろしかった。近くにいる犬たちは、前からといわず後ろからといわず牙をむきだして吠えつづけている。はじめはソロリ、ソロリと歩いていたのだが、犬どもはぼくの膝に鼻をつけるくらいに近寄って吠えている。すでに十数匹の犬に取り囲まれてしまった。
 ここで1匹でも興奮した犬が噛みついてきたらと想像すると、もうそれ以上動くのは危険に思え、ぼくは立ち止まり、どうしたらいいものかと考えた。
 ちょうどそのとき、20mほど先にある知人宅から懐中電灯をもったひとの姿があらわれた。友人の父親だった。かれは、犬たちを追い払いながらこちらにどんどん進んできた。助かったー、と息を大きく吐いた。

 プーことプートラは、生後3か月ぐらいだった。案の定、扱いにくい犬だった。首輪をかけ鎖につないでいたが、鎖をほどくとそのまま逃げてしまう。呼んでも振り向きもしない。あげくどこかで外泊までしている始末だ。
 まだ子犬のときだったが、鎖がからだにからまりキャンキャンと叫び声をあげている。庭におりて、鎖をつかみよじれをほどこうとしたら、ガブッとひとの手を噛んできた。「飼い犬に手を噛まれる」を地でいく場面だ。その瞬間、どこでこの様子を見ていたのか、飼い猫のマリーアントワネコがサッと飛んできて、いわゆる猫パンチをプーの顔面に一発食らわしたのだ!
 プーはキャイ〜ンと情けない声をだし、ぼくはマリーアントワネコの果敢さに感服した。
 マリーアントワネコが、犬にパンチを食らわせたのはこれが初めてではない。ある日、外からもどったぼくは門を入った。数歩進んだときに、マリーアントワネコが脱兎のごとく飛んできた。気づかなかったのだが、隣人の飼っている犬がぼくのすぐ後ろにいたらしく、これがぼくの足首をアマ噛みしようとした瞬間、マリーアントワネコがバシッと右フックをいれたのだ。犬は、ギャッと叫んで逃げていった。
 犬よりも犬っぽい猫だった。それにくらべると、プーは猫よりも猫っぽい犬だったといえる。身勝手なわけである。
 バリ犬とは、だいたいそういうものだ。かれらを見ていればわかるように、ほとんどが好き勝手にやっている。飼い主の後ろについて歩いている姿などめったにお目にかかれない。路上でも田んぼの畦でも、脇目もふらずスタスタと歩いている。なにか用事でもあって出かけていくような風情で歩いている。
 ひと(飼い主)のことはあまり考えないが、じぶんの都合は最優先。なにがなんでも我を通す。気分屋で調子のいいときは笑顔いっぱい、悪いとなると─ぼくは、いったい誰のことを書いているのだろう…。
 プーもそんなバリ犬の一匹なのだ。飼われ方そのものはバリ風ではないので、やはりそこには多少の違いはあるものの、「忠実さ」にはどうも欠けた犬だった。

 同じプリアタンのタガスに移ったとき、プーと、いつのまにかウチの犬になってしまっていたメス犬のデウィが一緒だった。
 2匹とも歳が近かったせいか仲がよかった。あるとき、プーがひとりで家に帰ってきた。ちょうど餌をあげるつもりでいたので「デウィはどうした? デウィも呼んでおいで」と言うと、きびすを返して外に出ていった。そして、すぐにデウィを引き連れて戻ってきたのだ! ホントに分かってるのかな、とその後、この“デウィを呼んでおいで”を機会あるごとに試したが、あとにも先にもこのときだけであった。マグレだったのか、それとも二度とそういう気分にはならなかったのか、それは分からない。
 
 デウィが年頃になると、うじゃうじゃとオス犬たちが家のまわりをうろつきはじめた。朝から晩まで、見知らぬ犬たちが発情期のデウィをめがけてやって来たのだ。このときに初めて、バリニーズたちがオス犬は飼うけどメスは捨ててしまう、という理由が分かった。メスがいれば、よそからオス犬たちがやってきて所かまわず脚をあげて“ラブレター”をひっかけていく。臭くてたまらない。それだけではない、オス同士の争いが絶えないからやかましくてしょうがないのだ。
 そんな毎日が始まって間もなく、デウィが外から戻ってくるなりプーの背後にのしかかり、なんと腰を前後に振りはじめたのだ! どこかのオス犬が彼女にしたであろうように。
 プーは、ほんとうはデウィの「意中のひと」だったのだろう。ほかの誰でもなく、ほんとうはあなたに、と訴えている。そうとしか見えなかった。
 プーは、まことに哀れな表情を浮かべうなだれていた。
「そう言われても…」

 とっくにプーを去勢してしまっていたのを、このときは本気で申し訳ないと思った。