覚え書き・バリ人の微笑

 ‘92年に初めてバリを訪れた話は前々回に書いた通りだ。そのとき出会った「謎の微笑」にライターのMさんとともに感嘆し、その意味もいまは理解できるようになった。
 その‘92年の滞在中に、ぼくらはデンパサールのクンバ・サリ市場を取材の目的で訪ねた。メインの建物にむかって歩いていく間にも、数多くの物売りたちが地面に品物を並べ、その前を通り過ぎるひとびとに声をかけている。
 Mさんが闊歩していく後ろを少し離れ、炎天下、ひとやモノの塊がまるで醗酵したような匂いを吐き出しているのを、快とも不快とも感じながら、ぼくは歩いていた。Mさんが進んでいく斜め右前に、地べたにしゃがみ込んだひとりの老婆が束ねた扇子を握って掲げ、「シェンイェン、シェイェン」と声をあげている。まとめて「千円」と言っているのだ。
 彼女は満面の笑顔をMさんに向けている。Mさんが目の前を歩いていくその動きにあわせ、彼女の上半身も笑顔もMさんを追っていく。そして、Mさんが彼女の前をつれなく通り過ぎてしまったその瞬間、彼女の笑顔も一瞬のうちに消えてしまった。1秒でも長く笑顔を浮かべていたら損だ、といわんばかりのその「変わり身」の素早さにぼくはびっくりした。
 一瞬で消えてしまう笑顔! まるで電気スイッチの on と off の切り替えのように経過も余韻もなく消滅した微笑…。

 
 映画監督の大島渚氏がTVのトーク番組にたびたび出演するようになり、それまで映画を通してしか知らなかった氏の別の面が、露(あらわ)にブラウン管で発揮されていた頃、そのゆたかな喜怒哀楽の(もっぱら「喜怒」の要素が強かった)表情が大きな声とともに印象に残った。なかでも、奇妙に感じたのは、かれの笑いかただった。
 口を大きく開け屈託なく大声で笑う、そこまではよい、そのあと「はい、カ〜ット!」と誰かに指示されたかのごとく、ピタッと口を一文字に閉じて笑いが一瞬にして消えてしまうのだ。さすが映画監督! といえばいえるのだろうが、見ていてじつに奇妙だった。笑いのさまがダイナミックなぶんだけ、違和感さえ感じた。初めて見たときには、とつぜん気分でも害したのかと心配したくらいだった。
 クンバ・サリ市場の老婆の微笑がon と off の素早さで切り替わったのを目撃したとき、ぼくは大島渚監督を思い出していた。


 バリでは、この「はい、カ〜ット! 式」というか「on / off 方式」の微笑はしょっちゅう見かける。擦れ違いざまの挨拶のほとんどは、このスタイルだ。余韻も含みもなく微笑はスッと顔面から消える。「消えていく」のではなく「消える」のだ。その消え方のいさぎよさ、あと腐れのなさは見事である。
 この挨拶としての微笑を、なにかほかの意味合いと混同してはいけない。その微笑は「挨拶」以上でも以下でもないのだから。日本でのシチュエーションでいえば、初対面のひとにお辞儀され、そのお辞儀に特別のメッセージを読むこともないのと同じなのである。
 至極あたりまえのことを強調するのもヘンだが、いわばこれは老婆心から発しているのである。


 10月に警察の統計として、今年1月から9月までの交通事故死者数が新聞に発表された。ほとんどがバイクによる事故だが、その数の多さにあらためて愕然とした。月平均にすると300人近い死者数になる。人口約300万人の島で、毎月0.01%のひとが路上で亡くなっているのである。
 規模や条件はもちろん異なるが、これを単純に東京に置き換えるとどうなるか─毎月約1,200人の交通事故による死者が発生していることになる。
 異常事態である。日本の自殺者数の多さに匹敵するほどの異常さだ。
 もともと交通ルールもモラルも滅茶苦茶なところへもってきて、激増する車とバイクが一般道でまるでレースでも楽しむように突っ走っているからだ。この春に、ぼくがバイクに乗るのをやめたゆえんである。
 外出の機会が激減してしまったが、遠出の折には相変わらず個人タクシーを利用している。そして、馴染みのドライバーが走行中に「ツェッ!」と舌を鳴らす数が増えているのに最近気づいた。安全運転を旨とする穏やかな気性のかれにも、この狂いはじめた交通事情が影をおよぼしている。
 じっさい、後部座席から路上の様子を眺めているとため息がでてくる。天からクレーンがスルスルと降りてきて、暴走する車やバイクを吊るしあげてそのままインド洋にでも放り出してくれたらせいせいするのに、と思うけど、これは海洋汚染につながるからマズい。


 やはり前々回に書いた、衝突しそうになったバイクの運転者同士が、互いに微笑を交わしあって緊張した場面をほぐしていく関係性も、やがては薄まっていくのではないかと危惧する。
 ツェッ! の数が増えれば増えるほど、当然、路上での微笑は消えていくに違いないのだから。