「誤診」をめぐって

 ジャカルタで発行されている日系紙「じゃかるた新聞」の一面に、「SNS 正義のコイン 病院側が訴訟取り下げ 庶民パワーで主婦勝利」のタイトルが掲げられていた。
 少し前から、TVニュースでも、名誉毀損でオムニ国際病院から告訴されていた主婦プルタ・ムルヤサリさんを支援する募金活動が熱を帯び、募金の成果が裁判所の下した賠償額(2億400万ルピア / 約200万円)に刻々と近づいていると報じられていた。今日の新聞報道は、募金総額はついに賠償額の2倍を超え、さらに病院側は告訴そのものを取り下げた、というのだ。
 溜飲の下がる明るいニュースだ。
 プルタさんは、オムニ国際病院で誤診されたと書いたメールを友人たちに送ったのだが、それが病院側にもれて名誉毀損で訴えられる顛末になった。昨年8月の出来事だ。
 プルタさんを支援するウェブサイトをチェックしても、「誤診」の内容や彼女の書いたというメールの要点は見いだされなかったが、ここらへんのいきさつについては、まあ、推して知るべしだろう。
 
 バリに移住してから、これは期待してはいけないぞとじぶんに言い聞かせたことのひとつに「医療事情」がある。医療レベルの低さは、ここで生活していくうえで大きなリスクになる、それを覚悟したのだ。
 事実この予測は、ものの見事に当たっていた。
 ジャカルタの主婦プルタさんが問題にした「誤診」だが、ぼくにも経験がある。2年前の10月頃の話だ。風邪の治りがすっきりしないまま、咳だけがいつまでも残った。ひとと話をしているときも、咳が出はじめると止まらなくなり話が続かなくなってしまう。
 ある日、訪ねてきた友人と雑談をかわしていたのだが、ちょうどそんな状態になってしまい、文字通りまったく話にならない。心配してくれた友人に、
「病院に行ったほうがいいよ、ぼくが連れていくから」
 と勧められ、かれの車で真っ直ぐに、とある病院まで案内してもらった。ここでは「とある病院」とだけ書いておこう。ぼくまで「名誉毀損」で訴えられてはたまらない。
 インドネシアでは(もちろんバリでも)結核はまだまだ用心しなければならない疾患だ。じかにぼくの知っている範囲でも、この病気で亡くなったひとがふたりいる。友人に連れられていった病院では、医者がX線撮影を勧めた。あまりにも長くつづいている咳だから、と医者は言った。
 さっそくレントゲン室で写真を撮り、その結果のでるまで30分ほど待合室で待たされた。ふたたび検査室に呼ばれた。フィルムが蛍光板に張りつけられている。で、その前に立っている医者がフィルムを見ながら言った。
「わたしには分かりませんから、ほかの病院の専門医に見てもらいますね。診断は明日でますから、明日電話をください」
 ズズッ、と転(こ)けそうになるセリフだ。
 翌日病院に電話すると、ほかの医師が応対した。
「高血圧による心臓肥大と診断がでていますが、これは誤診ですねえ」
大笑いして、電話を切った。電話を切ったあと、ぼくは昨日いったいなにをしに、友人を煩わせてまで病院に行ったのだろう、と考えこんでしまった。
 咳もいつのまにか熄(や)んでしまった。

 上の一件を最後に、ぼくは病院に行くのをやめた。診断を聞くたびに、大笑いしてばかりもいられないだろう、と思うからだ。多少の高熱がでて寝込んでも、なんとかやり過ごしてきている。風邪ぐらいならともかく、ほかの疾患ではそうもいかないのは分かってはいるが。

 2002年には、初めての尿路結石で辛い思いをした。痛みのピークは夜中にきた。近所に住んでいた友人に助けをもとめ、かれに病院への連絡をお願いした。だいぶ経ってから往診にきた医者は、「クンチン・バトゥだな」と言った。尿路結石だ。採尿し、痛み止めをおいて帰っていった。
 その朝には尿検査の結果がでた。細かい石がみられたという。デンパサールの陸軍病院でレントゲン撮影を指示され、その通りにし、そこでの診断結果とフィルムを持って最初に往診してくれた医者のいるクリニックを訪ねた。
「レントゲンでは石はみつからなかったようです」と医者はつぶやいた。そして、つぎに言った医者のことばに、ぼくはひっくり返るくらいに驚いた。
「これは性病ですね」
 
  医師の誤診を訴えたわけではなく、それをメールで友人たちに書いて送った主婦プルタ・ムルヤサリさんが、逆に病院側から「名誉毀損」で訴えられて裁判に─幸い、病院側は告訴を取り下げたが、じつはその告訴よりも前に,直接の担当だったふたりの医師がプルタさんを名誉毀損の刑事訴訟で告訴していた。こちらは、訴えから3か月が経過していたので告訴の取り下げはできないまま裁判に持ち込まれるらしい。
 いったい、いかなる「名誉」がかれらの訴えの根拠となるのやら…と、ぼくはじぶんの数々の経験から推して疑わしく感じている。
 名誉の実体なるものに、果たして裁判は迫りうるのだろうか。