続・オレオレ(おみやげ)

 日本からの到着便がングラ・ライ空港に着き、荷物を受け取ってから税関を通り抜けるとき、昔はよく税関の職員に「オレ・オレ」と要求されたものだった。
 なにを寝言いってるんだ、と取り合わないでいたが、あのセンスというのは理解できなかった。たぶん、本人たちも本気で考えているわけでもなかったのだろう。「もらえたら、嬉しいな〜」という程度のもので、寄越さなかったからといって税関を通さないというわけではない。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる式のチャレンジだったのだろうが、当たることってあったのだろうか?
 それにしても、税関職員に「おみやげ」などを用意しているツーリストがいるわけもないのに、なぜ、そんなむなしいことばをかれらは口にしつづけていたのだろう。
「どうぞ、楽しい旅を!」と声をかけたほうが、よほどお互いに気分がよくなるはずなのに。


 入り口からしてこうなのだから、島の中に入ると、ふたたびいろいろと期待されて困ったものだ。


 定宿にしていたウブッドのホテルでは、スタッフともよく雑談する機会が多かった。なかには、しみじみと生活苦を訴えてくる者もいた。ツーリストであるぼくにそんな話をされても、かれの生活をどう改善したら暮らしぶりが楽になるかとアドバイスができるわけではないし、「では、これでも使って暮らしの足しにでもしなさい」と金銭を渡す気もない。
 ここらへんの判断が微妙なのだが、果たしてかれはなんらかの期待をこめてそんな話をしているのかどうか? 
 ぼくは、そうだと思う。
 そして、そんな話が度重なれば、いつもおだやかに聞いていられるとも限らない。
「そういう話はね、スハルト大統領にむかってしなさい」
 とぼくはこたえたことがある。
 当時はスハルトが大統領だった。いまは、スシロ・バンバン・ユドヨノである。酷ではあるが、そうとしか言いようがなかった。
 かれの顔色がサッと変わった。


 バリ北部のロビナに数日滞在したことがある。観光客のすくない静かな場所だ。自転車を借りて、のんびりと付近を走った。ブレレン(シガラジャ)の街のほうだと、わずかだが一部地域にコロニアルスタイルの民家がまだ残っていて、家並みを眺める楽しみはある。しかし、ロビナは、海岸線に沿った道路を挟んで建ち並ぶ家のつくりに魅力は乏しかった。伝統的なバリ民家というわけでもなくジャワ風でもない、一軒家のコス(アパート)といった感じだ。
 自転車を押しながら歩いていたとき声をかけられた。ふりむくと、どこかで会った記憶のある顔がニコニコとぼくを見ていた。かれが、ぼくの泊まっているホテルの名前を言った。ああ、そうか毎日見かけているルームボーイだと気づいた。
「ウチに寄っていきませんか」
 すぐ近くに住んでいるのだという。どうせ暇なツーリストであるぼくは、快く“招待”をうけた。
 まだ、真新しいちいさな家だった。奥さんと3、4歳の女の子、それに赤ん坊がいた。コーヒーをだされて口にした。家の裏から豚の鳴き声が聞こえる。
「豚を飼っているんだね」
「あの豚は、ホテルに泊まったドイツ人の客からプレゼントされたんです」
 かれは、いかにそのドイツ人が親切にしてくれたか、結婚後は生活の援助までしてくれたと語りだした。
 ああ、またその話になるのか、とぼくは興ざめしはじめた。その後の会話の詳細は失念したが、そのうちに、忘れもしないひとことをかれはぼくに向かって言ったのだ。
「そのジーンズは、じぶんのほうが似合うと思う」
 かれの視線は、ぼくのはいているジーンズに注がれていた!


 一見、図々しくも「婉曲かつストレート」(?) なこうした表現は必ずしも珍しくない。おもしろいことに、人間関係が親密でないほどにストレート度は高まる。だから、こちらとしては「図々しい」と感じるわけだ。


 数年前の話だが、あるジャワの青年から相談をうけたことがある。かれの出身地バニュワンギからは、多くの若者たちがバリに職をもとめてやってくる。その青年は、ぼくのバナナペーパー工房を見て、郷里で職のないまま無為の日々を過ごしている若者たちに仕事を与えるために、ぜひバナナペーパーづくりを学んで指導したいというのだ。
 志や、よし! 技術提供をするにやぶさかではない、とぼくは考えた。ところが話が進むうちにどうやら資金提供まで、かれはぼくに期待している様子だ。さらに、かれはこう言った。
「自分だったら、もっといいものがつくれる」

 
 ストレートであるのは、ときに話を速くすませるにはいい。このときも、ぼくらの会話は早々に切り上げられた。