生きることについて ナーズム・ヒクメックの詩から


この1週間はなにかの符号がぴたりぴたりと合わさるように、ただ一点にむけて考えつづけていた。それは死についてであり、ひとしくいま死にむかってすすんでいるぼくらの生についてだった。



はじまりは、古くから付き合いのあるアメリカ人の友人Dが新たに契約をむすんだ借家に招かれたときだった。ニュークニンの渓谷前の傾斜地にたたずむだいぶ築年数を経たその借家は、贅沢ではないが、しかし優雅で趣味のよい彼の暮らしぶりにぴったりだった。
いま71歳になる彼は、今年3月を起点に16年の契約をすませたという話を聞いた瞬間に、聞こえはよくないかもしれないが「欲望」の深さというものを思った。いいかえれば生命力の旺盛さのことだ。それが自然とちからになって生きるという営みをいとわない積極性だ。
そうか、面倒くさがらずに欲望は充たしていくべきなのかとやはりそのとき瞬間的に思った。



その直後に、札幌にお住まいのTさんがトルコ出身の詩人ナーズム・ヒクメットの「生きることは笑いごとではない」の一行ではじまる有名な詩「生きることについて」をFBのTLに投稿されていた。



「生きることは笑いごとではない
あなたは大真面目に生きなくてはならない
たとえば
生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはいけない」



冒頭からハッとさせられるまとまりのよいことばの連結が一連の最後までつづく。
そしてきわめつけはつぎの一節だ。



「真面目に生きるということはこういうことだ

たとえば人は七十歳になってもオリーブの苗を植える
しかもそれは子供たちのためでもない

つまりは死を恐れようが信じまいが
生きることの方が重大だからだ」



友人Dのことばやその暮らしのディテールをのぞき見て直観的に感じたのはこういうことだったのかと、あらためてなんども詩を読み返してみた。
「七十歳になってもオリーブの苗を植える」──それは、当然この先にある死をおそれてあるいはたじろいであるいは立ちすくんでいるのではなく、いま生きることの営みの具体性にこそ生存の根拠を与える、そういうことではないだろうか。いまなにかをなすことは、誰のためでもなく現在生きている(明日死ぬかもしれない)みずからのためなのだという真実。
それが真面目に生きるという意味なのだ。



そして数日前。Twitterにリプライの形式でメッセージが入っているのに気づいた。

「U市在住のKです。私の知っている潔君ですよね?
ただいま癌に侵され闘病中です。
連絡ください」



衝撃的な内容もさることながら、なんと37年ぶりに彼の「声」を聞くおどろきと嬉しさ!


20代の頃に影響をふかく受けたふたりの友人のうちのひとりで、当時、新婚だった彼の奥さんが「嫉妬」するほどしょっちゅうつるんで遊んでいた年上の友人Kだ。
肺ガンが骨にまで転移し、医者にいわせれば末期ガンの症状をかかえているが、Kはぜんぜんめげていない。術後の腰が痛くてしかたなく歩くのにも難儀しているが、からだがもどったらぼくのいるバリ島にやって来ると、さらに便りがきた。



「今日は、朝からカラッと気持ちの良い秋晴れの日。
病人にはお天気が何よりのごちそうで、良薬です。

昨日は、バリ島の観光ガイドを買ってきまして、熟読しました。
ハワイやグアムのように簡単な島かと思ったら、意外に広くびっくりしてます。
ホノルルやタモンの街並みなら、どこになにがあるかわかるし、ホイホイ歩けるのですがバリはてこずりそうです」



ぼくらは会わなければならない。

手こずる島に20年も住んでいるぼくがきみを島のすみずみまで案内しよう。



ぼくらは会わなければならない、あの世ではなくこの世でかならず再会しようと、ぼくは返事した。