顔を見つめて物言う

 1月初めに友人から新年の挨拶とともに良寛の「九十戒」を書き写したメールをもらった。
「九十戒」と「戒語」の2種類があるらしく、ともに良寛さんが自戒のことばとして書き残したものだそうだ。


「九十戒」の最初の五条を並べてみる。
「言葉の多き」「口の早き」「もの言いのきわどき」「話の長き」「問わず語り」。
 こうした戒めのことばが90条もつづくと、良寛さん自身のための自戒とはいえ、たいがいのひとは耳が痛くなるはずだ。
 それでも、他人事となると「いるいる、こういうのって」と周囲の誰かれの顔をやたら思い浮かべたりもする。


 うえに書いた五条に勝手に「声の馬鹿でかき」をつけくわえると、ぼくの場合、やはりごろごろと知り合いの顔が浮かんでくる。
 こういう話は、いちおうじぶんのことは棚にあげて進めるのがお決まりなのであしからず。

 
「九十戒」にあって「戒語」にない一条がある。
「顔を見つめて物言う」である。
 ひとと話すときには、相手の顔をじっと見るな、という趣旨だろう。
 最初にこの一条を読んだときに、あ、と思った。


 なにが、「あ」なのか?


 ひとと話をするときには、相手の顔(目)を見て話しなさい──という「お達し」というか「しつけ」を言いつける声が、いまでも耳に残っている。
 誰がいつ、こういう「エチケット」を常識化したのかは不明だが、ぼくがこどもの頃には、このお達しは行き渡っていたように記憶する。
 それとも、ぼくがとりわけ「ひとの顔(目)を見ないで話をする子」だったから、いまだにこのことばが谺(こだま)のように響くほど、そう言われつづけてきたのだろうか。


 たぶん、そうなのかもしれない。
 いまでも、面と向かってひとと話をするとき、じぶんのなかで無意識のうちに「相手の顔(目)を見るように」とかつてのお達しがよみがえってくるのを自覚するときがある。
 とくに欧米人やバリ人を相手にしているときには、この心構えは必須だといつのころからかじぶんに言い聞かせている。
 目で勝負! とか、目を離すとなにしでかすかわからないから、という理由ではない。単純に、かれらや世間の流儀にのっとって対応しているのだと思う。

 
 ほんとうは、疲れるのだ。相手の顔や目を見つづけて話すのは。
 同時に、見られながら話すのも。


 そのことを重々承知しているから、良寛さんの自戒「顔を見つめて物言う」を読んだときに、「あ」と思ったわけである。
 まさに、わが意を得たり、であった。

ソースページ:www.koedo.org/k-scaraza/18868.html

 写真は小津安二郎の「東京物語」のワンシーンである。
 顔を見つめて物言っていない、このふたりの心地よい距離感! 小津映画では、カメラ位置とともにこの人物の配置構図は特徴的だ。
 会話もまた、この距離感から生まれてくる自然な流れを崩さない。


 こういう感じで話がしていたいのだ、ぼくは、じつのところ。

 
「九十戒」にあって「戒語」にはないこの一条に、深くこころうたれるというか、よくぞおっしゃってくれた良寛さん、と快哉の声をあげたいのだが、では、なぜ「戒語」にこのことばはないのか。


 あくまでも推測ではあるが、これは「九十戒」があとからまとめられたせいなのだろうと思う。

「戒語」あらため、「九十戒」の執筆にむかっているとき、
「あ、そうだそうだ、これも入れておかなければ」
 と、良寛さんは思い出すようにしてつけ加えたのではないだろうか。
「こういう大切なことをうっかり忘れるところだった」
 とか言いながら…。


 しかしまた、逆の推測も成り立つ。


「九十戒」あらため、「戒語」の執筆にむかっているとき、
「あ、そうだそうだ、これは消しておかなきゃ」
 と、良寛さんはほのかに慕う貞心尼を思い出し、
「顔を見つめて物言わねば、なにが楽しいやら」
 とでも言いながら、削除してしまったのかもしれない...それはそれで、よく分かる。


 いずれにしても、「推し量りのことを真実になして言」っているようで、まことに心苦しいが、しかし、「こころにもなきことを言」っているのではないので、どうぞお許しを。