アルゥのゆくえ

 昼もだいぶ過ぎてから、ぼくを呼ぶ丁稚のダルビッシュの声が聞こえてきた。
 外をのぞくと片手に「アルゥ」をぶら下げている。
「デウィとミミが捕まえたんです」
 二匹の犬に襲撃されて、アルゥは血を流していた。
「バパッ、食べますか〜?」
「...... 」

捕獲されてしまった「アルゥ」。背後にいるのはミミ..アルゥの運命やいかに..。
 
 肉を、ぼくはほとんど食べていない。信条をもったベジタリアンというわけではなく、たんに旨い肉に出会えない、そのいきがかり上から「ほぼベジタリアン」の食生活がつづいているだけだ。一時期、意識的に肉を摂取しようと「バビ・グリン・デー」を週1回もうけていたが、これもだいぶ前にやめてしまった。


 しかし、いきなりダルビッシュから「食べますか」と聞かれて首を横にふったのは、「ほぼベジタリアン」の立場からの返事でないのはもちろんだ。
 生きている蛇やカエルをつきだされ、「食べるか?」と尋ねられても「喜んで!」とは答えられないのとまったく同じ理由からである。
 もっとも、コブラ・スープというのをクタの「蛇専門食堂」で飲んだ経験はあるが、これは風邪退治が目的で、味わうとか楽しむのとはまったく無縁。事実、そのギトギトに脂ぎったスープの、口のなかに粘りつくような触感に辟易して最後までは飲みきれなかった。


 ダルビッシュは「アルゥはイグアナ」と言っていたが、にわかには信じがたい。トカゲの一種には違いないとしても。
 完全な肉食で、好んでカエルの死骸や生きた鼠、大きく成長したものになると鶏まで襲うらしい。


 ウチの庭を横切って田んぼのある北側へ横断しているのをときどき見かけるが、きょうは運悪く犬に見つかってしまった。


 数年前のことだが、4匹の犬たちが一団になって北にむかって走り、フェンスの前まで来ると、一斉にくるりと向きを南に変え、再びかたまって走る奇妙な様子をいぶかしく思って外に出ると、犬たちのわずか半身先を1匹のアルゥが血相変えて(?) 疾駆している姿を見たことがある。
 このときのアルゥは、きょう捕獲されたものよりもはるかに大きく、それだけ脚力も優っていたのだろう、けっきょく犬の追跡をかわし、北側のフェンスをうまい具合にくぐり抜けて田んぼに脱出成功とあいなった。
 思わず拍手してあげたくなるような見事な逃げ切り!


 田んぼにでたアルゥは、こちら側のフェンス脇を行ったり来たりしている犬たちを尻目に、畦でひと呼吸整えるといったおもむきで立ち止まった。
 前肢で前身をぐっと持ち上げ、頭から尻尾の先まで微動だにしない姿勢をたもっている。すぐそばまで近寄って眺めていても、アルゥは、毅然としてその姿勢を維持したまま逃げる気配もない。
 爬虫類特有の沈黙のまなざしは、じっと夕陽を見据えていた。


 はじめて爬虫類をうつくしいと感じた。いや、うつくしい一匹の爬虫類にはじめて出会った、と思った。


 ゆたかな自然に囲まれたいい環境ですね、と訪ねてみえるひとによくいわれる。視覚的にはたしかにそうかもしれない。だが、自然に囲まれているというのは、日々の具体的な生活の隅々にかなり困った事情も加わる。

田植えの終わったばかりの北東の方角を望む。うっすらと霊峰アグン山が見える。

 小動物や昆虫などが想像以上に生活空間、居住空間に「侵入」してくるのだ。
 アルゥと犬の追いかけごっこぐらいならまだしも、コブラや猛毒をもつグリーン・スネークが登場したりすると、これは見過ごせない。
 以前はしょっちゅうと言っていいくらい、コブラが家のなかにまで入ってきたのだが、見つけしだい退治していた。


 2種類のヤモリ──透明感のあるベージュ色の「チチャック」と緑灰色にオレンジ色のドットをつけた体長30cmほどの「トッケイ」が所かまわず糞を落とすのは、もはやバリの「風物」としてあきらめるしかないだろう。
 黒い大小の糞が、PCであれ本の表紙であれ、テーブルやベッド、もちろん床の上にもポトポトと落ちているのを見ない日はない。


 蜂がやたらと飛び交い、幼虫を包んだ泥のかたまりを、やはり所かまわずつくってしまうのも、忍耐とあきらめ半ばで見ている。
 商売道具の紙や照明具にベタリとかりん糖のようなかたちの泥がこびりついているのを発見すると本当にがっかりしてしまう。もはや「売りもの」にはならない。
 この「泥かりん糖」は、電気器具のうしろ、家具の裏側、並んだ本の隙間、長い間吊り下げたままの服に付着していて、気づいたころにはすでに乾ききったもぬけの殻となっている。
 どうして、ここでなければいけないのか !? という場所に限ってこの泥かりん糖があるのも不思議だ。

 
 蠅にうるさくつきまとわれ、蟻にチクチク噛まれ、蚊に食われ、蜂の一撃を浴び、飛び散った毛虫の毛にかぶれ、またあるときは正体不明の「毒虫」の闇討ちにあい、手が腫れ上がってしまったこともある。
 一年中こんな目に遭いつづけている立場からは、かくも身近な、文字通り身に接してくる自然が、「いい環境」だとは必ずしも言えないわけである。

メタボ・ハンドと呼んでいた。痛みはないが、かなり痒かった。

 この数か月悩まされているのは、フルーツ・バットだ。
 このフルーツ・バットは、その名のとおり果実だけを食べているコウモリで、じつはなかなかかぐわしい体臭をしている。
 ある夜、テーブルにむかってなにかの用をしていたとき、このコウモリがぼくの顔を殴るような角度で飛んでくるや、甘い香りをかすかに漂わせると一瞬のうちに去っていった。
 香りや芳(かんば)し、とはいえコウモリが部屋に飛び込んでくることじたいが、ぼくにとってはあまり嬉しいものではないのだが…。

クタパン(トロピカル・アーモンド)の木が紅葉した頃。葉は染料としても使える。

 コウモリは、庭にあるクタパン(トロピカル・アーモンド)の実を食べにやってくるのだ。それは一向に構わないのだが、毎晩、工房のなかに入っては天井にはりついたまま運んできた実を食い散らす、その残りカスが、つくったばかりの紙を覆っていたときもある。
 コウモリの食べ散らかした跡を毎朝掃除して歩く、これもまた自然との「共生」なのだろうか。


 庭を横切るだけのアルゥのふるまいなど、じつにかわいらしいものだ。


「バパッが食べないなら、アジにあげようかな」
 ダルビッシュが友人の名をつぶやいた。アルゥは、アジの大好物なのだそうだ。
「田んぼに放してあげなよ」
 そうは言ったものの、こんなに出血していたらひょっとして生き延びるのは難しいかもしれないとも思った。
 ぼくのことばに、ダルビッシュはなにやら思いあぐねている様子だった。


 すっかり暗くなってから、かれは「アジのところに行ってきます」と告げてでかけた。
 “手みやげ”はアルゥだな、と直感した。