温かい気持 4 閉じていく思い出のそのなかに 11

 
 内田百間の涙──。


 とにかくよく泣くひとだ。ノラがひと晩帰らなかったその朝から、すでに泣きだしている。ノラの失踪3日目には、奥さんが配慮をきかせる。


「毎日私が泣いて淋しがるので、家内がだれかに代る代る来て貰つて一緒に御飯を食べる事にしてはどうかといふ。」


 かつての教え子で作家の平山三郎氏が、最初のお相手をすることになる。映画『まあだだよ』にも描かれたところである。

 この平山氏は数日後、こともあろうに百間先生を泣かせてしまう。


「夕方平山からの電話の時、猫捕りに持つて行かれたのではないか、居酒屋のあすこのおやぢさんがさう云つたと云ふ .… さう云はれて又悲しくなり、暗くなるまで声を立てて泣いた。何の根拠でそんな事を云ふのか。….
 淋しいから清兵衛さんに来て貰はうと思ふ。」


 当然だが、今夜は平山氏にではなく、代わって「清兵衛さん」に声をかけるところがおかしい。
 また、じつにまわりのひとびとは百間先生のために入れ替わり訪ねてきては、夜遅くまで相伴するのである。


 平山氏のことば。

「ノラが居なくなった当座、先生の日常はまったく支離滅裂だった。… お膳に坐って、いつもの様に御馳走になっても酔いの廻りがどこかにつかえる様だった。──目のまわりを赤くして、しきりに洟をかむ百間主人の方をわたしは成るべく見ない様にした。」(『ノラや』解説)


 たかがと言っては憚りあるが、やはり世間一般的には「たかが」だろう。そのたかが猫一匹の失踪に泣き暮らす先生のために、百間先生の周囲の人間たちが寄り添う、その機微のようなものに『まあだだよ』をつくった黒澤明監督は着眼したのだろうと思う。



漱石門下の後輩で友人の芥川龍之介の描いた百間先生。


 当時、「小説新潮」の編集者であった小林博氏は百間を誘って熊本・八代への旅を企画し実現する。ノラが失踪して2か月ほどたったころである。
 編集上の企画であった以上に、百間先生の気を引き立てさせるのが目的の旅行であった。

 しかし出発の朝、


「今日も家を出る時、ノラはゐないのだと思つたら、玄関外まで送つてきた家内に、『それでは行つて来るよ』と云ふ一ことを口に出す事が出来なかつた。前を向いた儘、頬を伝つてゐる涙を見せない様にすたすた歩いて、門の外に出た。」(「千丁の柳」)


 旅中の旅館での食事中、


「夕方宿屋のお膳で一献中、何のきつかけもないのに、ひとりでにノラの事が思はれて涙が止まらなくなり…」

 中座する。


 そして帰宅するやいなや、


「家へ帰つて玄関に這入つたが、ノラはまだ帰らぬかと聞く迄もない。今日でもう八十八日目である。沓脱ぎに腰を掛けた儘、上にも上がらず泣き崩れた。」



内田百間。1889(明治22)年ー1971(昭和46)年。本名栄造。筆名の百間は、故郷岡山市を流れる旭川放水路の百間川からとられたという。


 ご本人みずから、このありさまを認めこう書いている。


「しかし私の場合、元をただせば生来私が泣き虫であるのがいけないかもしれない。」(「泣き虫」)


「泣き虫」は1963(昭和38)年に書かれた短い随筆で、ノラ失踪の騒ぎのなかノラにそっくりな雄猫を飼いはじめ、クルツと名づけたが、そのクル(ツ)が5年余ののちに病死、ふたたび涙に明け暮れた日々の頃のものだ。


 この随筆で、百間先生はまだ十歳にも満たなかった遠く幼かった日に体験したある出来事を思い出している。
 小鳥好きの祖母のもとに小作人が雲雀の巣をもってくる。巣の中には「黄ろい嘴を一ぱいに大きく開けてぴいぴい餌をせがんでゐる」二羽のヒナがいた。

 ところが、ヒナは一日しか生きられなかった。

 
「雲雀の子が死んだのを見て、急に悲しくなり、子供心にも非常に深刻な気持になつて、こころの底から泣きだした。
 その時の悲哀を今でも微かに思ひ出す様である。… 小さな雲雀の子が死んだと云ふだけの事が、子供心のもつと奥の何かにさはつた様である。」


 自身の「泣き虫」の淵源たる思い出のなかで、百間は「子供心のもつと奥の何か」を見いだしている。何年も飼っていた雲雀が死んだのではなく、たった一日だけ、身近に見ていたヒナが死んだ。その死に接して泣いたという点にも留意しておこう。
 そして、


「今クルの為に抑へきれないでゐる涙は、昔昔、雲雀の子に流した涙と同じ所から出てゐる様な気がする。」


 と書いて随筆を終える。


 ノラやクルツのために「すでにへとへとであり、こちらが命からがらの状態」になりながら泣きつづける百間先生。そのこころの深部に潜んでいる「子供心のもつと奥の何か」とは何か?


 話はようやく「温かい気持」に近づいてきた。(つづく)