温かい気持 5 閉じていく思い出のそのなかに 12

「温かい気持」は、『妻を帽子とまちがえた男』(オリヴァー・サックス著)の第四部「純真」のプロローグ冒頭にみつけたことばである。
 オリヴァー・サックスは脳神経科医で、’91年に日本でも公開された映画『レナードの朝』のもとになった同名の本 (‘73刊)の著者でもある。


 この「温かい気持」ということば自体は、旧ソビエトの神経心理学者A. R. ルリアの書いた『こどものことばと精神発達』(‘59刊)の序文にでてくるらしい。


「もし自分の本についての気持を述べることが許されるなら、私はこの小著のなかに書かれている人たちにたいしていつも感じていた温かい気持のことをぜひ付記しておきたい。」


 とサックスは、ルリアの著書から引用している。

「この小著のなかに書かれている人たち」とは、知能障害をもった患者たちのことだ。
 サックスが初めて知的障害のある神経症患者たちの治療をはじめたとき、その仕事へのためらいを先輩のルリアに手紙で伝えたのだが、返信は予期に反して肯定的な内容だった。


 サックスは、あらためてルリアの著作にもどって、その意図を汲みとるようにしてこの「温かい気持」について考察していくのである。



オリヴァー・サックス(1933- )。ロンドン生まれ。大学卒業後、渡米。脳神経科医として活躍。最新作『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)─脳神経科医と音楽に憑かれた人びと』も好評。Photo by Luigi Novi © Creative Commons


 この考察については全文引用したいところだが、ぼくの向かっている方向は神経学者の専門的な議論についていくことではない。しかし、そのエッセンスには目を瞠(ひら)かせられた。


 要約すれば──。


 神経科医として彼らが接した知的障害をもったひとびとには、興味深い特徴がある。それはこころの「質」に関連したもので、知能的な欠陥とは無関係に「すこしも損なわれることなく、かえって高められている」のである。

 彼らのこころの「質」に特有のものをひとことで言うなら、それは「具体性」である。


「彼らの世界は生き生きとして、情感するどく、詳細にわたり、それでいて単純である。具体的だからである。抽象化によって複雑になることも、希薄になることも、統一されてしまうこともないのである。」


 この「具体性」は、神経学や精神医学では一般に人間の能力としては低くみられがちである。
 抽象化の能力、概念理解や叙述能力こそが人間を人間たらしめていると見なすからだ。
 しかしサックスは、いやそうではない、「具体性こそが基本である」、より自然に即してこう考えればいいのだ、「脳に損傷をうけた場合にも、具体的なものを理解する能力は損なわれず残るのだ、と」。


「退行して具体的なものしか理解できなくなったと考えるのでなく、具体的なものを理解するもとからあった能力は失われず残っていると考えるべきである。」


 知的障害をもったひとびとは、いわばこの基本的な能力のありかたを示している。



『妻を帽子とまちがえた男』(早川書房)。原著は1985年刊。



「彼らは、はじめから知能が低く抽象的なことは理解できないが、だからこそそれに惑わされることもない。考えこむようなことをせず、素朴で、しばしば人をおどろかせるほどの集中力で、直接現実を体験しているのである。」


 サックスは、知的障害をもつひとびとのこうしたこころの「質」、その特徴である「具体性」の観念を、さらに子どもや「未開人」のこころと共通したもの、すくなくとも類似性のあるものと強調する。


 サックスのプロローグをおおまかに語れば、うえのような筋道になるのだが、はじめに書いたルリアの言う「温かい気持」にもどると、知的障害をもつひとびとと接して、かれらの内面にある感受性のありかた、サックスの言う「具体性」を特質とするかれらのこころの反応こそが、ルリアをしてあるいはわれわれをして「温かい気持」を感じさせるのだ、ということになる。


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 飛躍したとらえかたかもしれないが、しかし誤ってはいない──じつは、ぼくはこのプロローグを読みながら、3月に死んだ飼い犬チェリーのことを考えていた。
 犬もまたそのこころの特質をとりあげれば、まったく同じだと感じていたのだ。


 そして、前回書いた内田百間のいう「子供心のもつと奥の何か」、ぼくらが失ったのかあるいは隠しているのか、たんにふだんは意識化されないだけなのか、たとえて言えば「原点」のようなこころの質、そういったもろもろのことを考えながら読みつづけていたのである。(つづく)