温かい気持 5 (続き) 閉じていく思い出のそのなかに 13

 


 オリヴァー・サックスのいう、知的障害をもったひとびとのこころの「質」を想像するには、ぼくらの経験からは子どもの頃のこころのありかたを想起すればいいだろう。内田百間のいう、子供心のさらに奥にあるものについて思いを馳せてみればいい。


 ことば以前の、こころの反応を。


 サックスが述べている「具体性」というのは、こころの直接的な反応のありかたを示しているのだ。

 たとえば、指を氷に触れてみる。その時の感覚を「冷たい」ということばであらわすのではなく、皮膚から伝わる刺激、痺れるような感じ、指を氷から離してもなお指先を覆う奇妙な残存感──こうした、具体的でダイレクトな反応、「生き生きとして、情感するどく、詳細にわたり、それでいて単純である」反応をこころの「具体性」ととらえているのである。


 歓びにしても、かなしみにしても同様に、ことばを介することなく経験がダイレクトにこころの反応を引き起こすようなありかた。それは、じつは知的障害をもつひとびとだけではなく、われわれもかつてはそういう存在だったのであり、いま、そのことを忘れているだけなのだ。

 
 ことばに規定される以前の、こころの世界。


 不運にも知的障害をもつひとびとはその存在にとどまり、障害をもたなかった人間も、異なる意味での不運を背負って、ことばの海へ意識の迷路へと旅だってしまったようなものである。


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 しかし、そんなわれわれでも、このこころの原質に至る回路がひらかれる時がある。
 至福ともいえるその経験は、ことばを持たない生きもののこころと触れあったときだ。

 
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「考えてみれば、私の半生において愛という感情をこれほどまでに無拘束に全面的に注いだ相手はいないという気さえするのでした。」(中野孝次『ハラスのいた日々』)。

「私はたつた一匹づつの猫でこんなにひどい目に遭ふ。さうしてその後を引いていつ迄も忘れられない。猫は人を悲しませる為に人生に割り込んでゐるのかと思ふ。」(内田百間『ノラや』)。


 ともにルリアの言う「温かい気持」を、飼い犬や飼い猫をとおして感じつづけたひとが、かれら生きものたちの去ったあとの思い出のなかに抱く感慨である。