風水師  バリで読む『遠野物語』 1

 

 いま借りているこの土地に、まず工房を建てたのは2003年の暮れ、翌年の2月末にはささやかな家屋を建て終わっていた。
 家が建つまでのほぼ2か月は、プリアタンにある借家からこのマスの工房まで、飼い犬のチェリーをシートにまたがらせ10分くらいの道のりをバイクで通っていた。


 その頃、工房スタッフから耳にしたのは、隣のレストランでは「幽霊」が出るらしいという話だった。


 道を挟んで南側にイタリアンレストラン、当時はStiff Chili といっていたプール付きのレストランがある。夜警や泊まり込みのスタッフがたびたびそれを目撃している、というのだ。
 白装束に身をつつんだ女性が、レストラン敷地の東のはずれの暗闇からスッと現れ──しかし、べつになにか悪さをするわけでもない。
 深夜に、ただ現れては消えていく。
 たったそれだけの出来ごとだとしても、誰だって闇のなかでそんなものを見るのは気味が悪い。


 その「幽霊」を目撃したのがひとりやふたりではないところから、オーナーは、東のはずれの角にあるサンガの南端に、「幽霊」のために供え物をささげる拝所をあらたにつくった。
 毎朝、サンガへの供物ととともに、その拝所にお供え物をささげるスタッフの姿はいまでも目にする。

 拝所をつくり供物を供えはじめてから、くだんの女性の深夜の訪問は途絶えたらしい。


 *サンガ / Sanggahとは、バリ関係の本では「屋敷寺」などと訳されるが、家の敷地内の北東の方角に設置された石造の「社」あるいは「祠(ほこら)」がいくつか集合した領域である。



レストランの東端。右側のブロック塀の向こうにいくつか「祠」の見えるのがサンガで、いちばん奥の拝所に「幽霊」のためのお供え物が供えられる。


 2004年2月に家を建て終わってから、どういう経緯でそんな話になったかは忘れたが、大工の頭領がかれの友人の知り合いに風水師がいると、ぼくに教えてくれた。

「観てもらう?」

 と尋ねられた。

 建てる前にそういう話になるならともかく、建ててしまってから観てもらってもなぁ、とは思ったが、おおいに興味はあったのでつぎの日曜日にその風水師に来てもらう段取りをつけた。


 約束の日の朝、頭領に連れられて風水師がやってきた。

 想像していたよりもはるかに若く、マス・エコと頭領から紹介された。“マス”というのは、インドネシア語会話のなかでは若い男性に「お兄さん」と呼びかけるときにつかわれるが、バリではあまりつかわれない。
 ぼくのスタッフによると、「そう呼ばれるのはジャワ人と勘違いされているようでイヤだ」ということだ。

 だから、“マス”とよばれたエコ君はバリ人でないのは明瞭。たしかスマトラ出身だったと記憶する。バンリ市で水道関係の仕事についていると、自己紹介された。
 長身のきりりとした顔立ちに黒々とした口ひげが、若いわりにはよく似合っている。


 そのエコ君がやおら、ぼくの家からはよく見えないレストランの東の方角を指さして言った。

「あそこに、以前は墓場がありましたよ」

 
 顔にはださなかった(はずだ)が、内心かなり驚いた。

 例の幽霊騒ぎの話のあと、二、三の地元のひとから聞いていたのだが、レストランの敷地からさらに東のはずれは、昔、墓場であった、と。
 しかも、伝染病やなにかふつうではない亡くなりかたをしたひとたちが葬られていたらしい。
 そんな話を聞かせてくれたひとびとでも、実際には、その地帯が墓場であったのを見たことはない。だいたい五十代の年齢の彼らが物心ついた頃には、そこはすでにいまと同様、棚田の一部だったらしい。

 そういう言い伝えがある、ということである。


 風水師のエコ君はつづけた。

「まだ霊気があるけれど、ここまでは来ませんよ」

「どうして?」

「この土地は、小さいけど水路で仕切られているからだいじょうぶ」

 かれは落ちついた表情で、そう言ってくれた。


                 *

 
 数日前、40年ぶりに『遠野物語』(柳田国男著。1910年刊)を読みかえしたが、いろいろと記憶がよみがえり、よみがえると同時にバリで見聞した「奇妙な話」も思い出したので、考えるところを交えながら、しばらくこの本をめぐる話がつづく。