エレンディラ風? マルキッサ
マルキッサ(パッションフルーツ)を庭で育てているひとは、ぼくの知る限りでも何人かいる。ペジェンに住む若いアメリカ人Ch.もそのひとりだ。
かれが家を建てるときにすこし手伝ったが、1年ぶりに訪ねたときには庭木もすっかり根づき見違えるような緑におおわれていた。
バリでは植物の生長は日本とは比べものにならないくらいに早い。日本でのガーデニングプランが、たとえば5年か10年の年数を見込んで設計されるとしたら、たぶんバリではその何分の1かの時間でみごとな庭ができあがってしまう。
もちろん植物の種類はまったく異なるのだが。
Ch.宅のログハウス風のリビングからバスルームにぬける短い廊下の奥に大きな窓がある。その窓の向こう側に、橙色に色づいたこぶし大の実が視界いっぱいにぶら下がっているのを見てハッとした。
嵌めごろしの窓だから開けて見るわけにもいかず、ガラスに顔を近づけ裏庭にひろがるその果実のたわわに実るようすを眺めていた。
(まるでエレンディラ...)
映画「エレンディラ」の、いま唯一記憶に残っているのはエレンディラと青年ウリセスがふたりともに全裸のまま部屋の外にあるオレンジの樹を見る場面──金色に輝く数えきれないほどのオレンジが庭の闇に燦(きら)めいて浮かびあがっている。
いまなら都心部のどこにでも見られる舗道並木にイルミネーションを散りばめた仕掛けを目にしても、「エレンディラ」のあの幻想的なシーンを思い起こすきっかけにもならないのだが、ペジェンのCh.の家で眺めた群れなす果実の姿に、30年近くも前に観た映画の記憶が甦った。
それでハッとしたのだ。
「マルキッサだよ」
Ch.がうしろから声をかけてきた。
そう言われてはじめて「マルキッサ」だと気づいたが、心中はまだ「エレンディラ」のひかり放つオレンジの印象と重なっていた。
唯一の映像記憶として残っているこのひかり輝くオレンジの樹を若いふたりが眺める場面はガルシア・マルケスの原作にはないから、映画のオリジナルあるいはアレンジなのかもしれない。
もとから垣根に沿って植えていたハイビスカスと重なるように開花。マルキッサもハイビスカスも花のいのちはわずか一日。
アレンジだとすれば、おそらく原作のこんなくだりが制作者の想像力を刺激したのだろう。
祖母の命令で余儀なく多くの男たちに身をまかせる少女エレンディラが、初めてウリセスを迎え入れたとき。
「エレンディラは彼の胸をむきだしにし、軽くキスをし、体臭を嗅いだ。
『体じゅうが金でできてるみたい。でも、花の匂いがするわ』
『きっと、オレンジのだ』とウリセスが言った。」(鼓直訳)
そしてこんな場面。
やはり「客」として訪れたウリセスがオレンジを手になかに入ると、エレンディラは天蓋つきのベッドに裸のまま寝ていた。
彼女は「いかにも気持ちよさそうに横になっており、テントを透かして落ちてくる光線の下で、あどけない幼児のように光り輝いていた」。
目を覚ましたエレンディラにウリセスがことばをかける。
「『体じゅうがオレンジ色だね』と言いながらウリセスは、比べることができるように彼女の目のあたりに果物を近づけた。」
オレンジとラテン・アメリカの若い肉体とひかりの輝きが、なにか象徴的な意味をもつように原作では結ばれている。映像作家の想像力を刺激するにじゅうぶんな要素のような気がする。
開花して数日後には実をむすび、1週間後には短径4 cm、長径6 cmに。
マルキッサはもちろんオレンジではないし、「エレンディラ」に登場するオレンジのようにそのなかにダイアモンドをひそめ隠しているわけでもない。
それでも、這いまわり絡(から)まりながら伸びていく枝のここかしこに、橙色の甘酸っぱい熱帯果実が点々とさらされているようすには、豊穣とはべつに、やはりことばには言い表しがたい印象もある。