果実のなる庭

 

 ‘97年から3年間住んでいたプリアタンの借家の庭にはマンゴーの樹があった。


 あまり威勢はよくなかったが、毎年かならず実をつけ知らないうちに家主が収穫してしまう。気づいた頃には、実をつける前のもとの姿にもどっていた。
 一度だけ、まだ熟す前のマンゴーをスライスした「ルジャック」をご馳走になったことがある。サラダに類するものだが、シャキシャキとした食感と酸味は若いりんごを思わせた。


 あるとき、マンゴーの実のなっている季節に東京から同年の友人夫妻が訪ねてきた。樹を見てしきりに羨ましがっている。


「ぼくらが結婚したとき、将来かならず庭のある家に住んで庭には果実のなる樹を植えようってふたりで話していたんだ」


 東京ではもうなかなかお目にかからなくなった光景だが、昔は、庭木のイチジクは珍しくなかったし、柿や枇杷も目にした記憶がある。柘榴を植えている家が近所に数軒はあった。


「子どもといっしょに果実をとって食べるのがユメだったけどネ...」


                   *


 マルキッサの蔓を這わせているフェンスは、3月に骨ガンで死んだチェリーを埋めた墓から2メートルほど離れた南側にある。マルキッサの生長を眺めにいくたびに「チェリー、チェリー」と声をかけながら墓の脇を通り過ぎる。



 チェリーはぼくの口にしているものであれば、野菜であれ果物であれなんでも食べた。


「これは苦くておまえには無理だよ」といっても、卵といっしょに炒めた苦瓜の切れ端を食べていた。


「これは酸っぱくてダメ」


 そう言ったところでチェリーは聞く耳もたず、お尻と尻尾をせわしなく振りながら、まるで誉められでもしたように嬉しそうな表情で葡萄の粒を口にしているぼくを見あげていた。


  初なりは 遺影に添えよ 夏の果実


 だから、庭のマルキッサが少しずつ色づいてくるのをいまは楽しみに待っている。