バリ塩の話

 

 一時帰国するときにはかならず「バリ塩」を友人たちへのみやげに持って帰る。


 このあいだは3kgをすこし超えていたので、あらかじめEMSで送っておき小分けしてからそれぞれ友人に手渡した。
 総額500円にも満たない価格のものを、4,300円の送料をかけて送るのは馬鹿げている気もしたのだが、事情があってそうせざるを得なかった。


 いま日本では、世界中の塩が手に入る。ちょっとお洒落な店では産地別にガラスケースに入れられ、小分けされたものも気のきいたパッケージにおさめられている。

 ぼくが友人らに贈る、ゴミまで混じっている塩とは大違いだ。

 ゴミといっても、塩づくりの過程でつかわれる用具類──竹笊や乾燥舟の椰子の繊維などが剥げおちたものだから、塩をつかうときに取り除けばなにも問題はない。


 このバリ塩は9年ぐらい前からは、住み込みの丁稚が帰省するときに買ってきてもらっている。東部バリのアメッドとトランベンのあいだにある、ちいさな村の塩田でつくられたものだ。

 それまでは、クルンクンのクサンバまでみずから出かけ塩を買っていた。


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 クサンバの塩田は‘99年に「週刊朝日」の取材コーディネートをしたときに、初めて訪ねた。


 朝5時から作業がはじまると聞いていたので、夜明けを待たずにクサンバにむかった。チャーターしていた車を国道沿いに停め、浜へつづく細い林道を歩いた。
 街灯もない道は、樹々のあいだから洩れてくる月のひかりに照らされ一本の白い筋になっている。

 林をぬけ浜辺にでると、西に傾いた満月が作業小屋の藁葺き屋根のすこし上にかかり、目に入るすべてのものを淡く照らしていた。
 浜にうちよせる波しぶきや塩田が横たわる広い砂浜も、遠くに見える岬や寝静まった集落の家々、群生する海浜植物もみな滲んで風景に溶けこむように青白い月のひかりの中にひっそりとかくまわれていた。



 夜明け前には作業を始めていると言っていた塩田の主(あるじ)のWさんは、月もすっかり落ち陽が昇ってから姿をみせた。悪びれた様子もなく屈託のない笑顔で挨拶する姿に、待っていた時間の長さを忘れた。

 
 Wさんの作業は天秤桶を担ぎ、海水を汲むところから始まった。スタスタと波打ち際にむかい、海水をふたつの桶にたっぷりと汲み、ずっしりと重くなった天秤を担いで浜辺の塩田まで運ぶ。区画された塩田のひとつに集中的に海水を注ぐ。
 この4つに区画された塩田は砂ではなく、精製された土の微粒子でできている。

 Wさんは、最初の区画に大量の海水を注ぎ、土を攪拌する。そして、ふたたびつぎの区画に移り同じ作業をつづける。4番目の区画での作業が終わり、最初の区画の土が乾きはじめると表面土をこそいでかき集める。

 かき集めた細かい土は、作業小屋のなかにある「濾過装置(Tinjung)」につぎつぎと入れられていく。
 竹を編んでつくられた円錐型の濾過装置に土が溜まったところで、Wさんはふたたび天秤を担ぎ浜辺にもどり海水を汲むと、この濾過装置の土に注いでいくのである。


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 そもそも「週刊朝日」の取材目的は製塩ではなく「世界の家族」というシリーズもので「バリの家族」をテーマにしていた。このときは塩づくりのWさんのほかにふたつの家族をとりあげたのだが、Wさんにかぎって言えば、厳しい労働を強いられる製塩をひとりで黙々とこなしているものの、果たして彼の若い息子さんはこの仕事を継いでいくのだろうか、というのがメインの内容。



 もちろん(と言うのも淋しいことだが)、彼の息子はすでにほかに職を得ていたしWさん自身もあえて継承を強いる気はなかったようだ。


 ぼくには、初めて見る製塩の作業工程のほうが、じつは家族の話よりはるかに興味深く、いまだに鮮明に記憶しているいくつかの場面がある。

 そのひとつがWさんの盛りあがった肩だ。

 それは筋肉隆々というものではなく、重い天秤を担ぎつづけていたせいで骨から皮膚までが隆起し変形した結果、まるで肩に木の根の塊りか切り株でも嵌めこんだような盛りあがりようなのだった。


「触ってもいいですか?」

 触っても痛くはないのだろうか、と心配しながら肩の塊りに触れて驚いたのはその硬さだった。何十年もかけて変形したからだの一部は、弾力のない、岩のような硬さとこわばりに固まってしまっていた。

(この過酷な労働から生まれた貴重な塩だからこそ、遠くてもわざわざそれを求めにしばらくの間クサンバまで出かけていた。)


 後日談だが、「週刊朝日」が発売されてだいぶ経ってからWさんの塩田を訪ねたとき、週刊誌をもってWさんのもとを訪れる日本人が何人かいたという話を彼から聞いた。
 安い買い物ではあるけれど、はるばると塩田を訪ねてくるツーリストがいるだけでも、彼の仕事にわずかながらの報いがあったと感じた。


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 製造工程に話をもどすと──。


 濾過装置に注ぎ込まれた海水は、滴(しずく)となっていちばん下に据えつけられた管から、ポトリポトリと落ちてくる。この高濃度の海水を、椰子の木を半分に割いて中心部を抉った舟のようなかたちの大きな容器に移し、炎天下、水分が干上がるのを待つ。

 きらきらと輝く塩の結晶生成は、灼熱の太陽がもたらす。



 先にも書いたように、11年前の取材は製塩が目的ではなかったから、工程についてはざっと説明をうける程度だった。だから、この「バリ塩の話」を書きながら、ぼく自身の記憶を確かめるように丁稚のダルビッシュに根掘り葉掘り質問した。いま塩のデリバリーボーイの役を頼んでいる彼の叔父さんが、塩づくりをしているからだ。

 塩田の「精製土」についても、ダルビッシュの説明で初めて知った。それまでは、てっきりただの海砂だとばかり思っていたのである。
 濾過装置の構造についても、エッ! と驚く話を聞いた。
 
 濾過装置は3層構造らしいのだが、いちばん上は精製土、つぎは砂、そして最後の層はなんと牛の糞が20〜30cm の厚さで敷かれているのだという!
 有機物繊維があのまろやかな塩の味に関係しているかどうかはわからないが、未消化の繊維が濾過の過程でたいせつな働きをしているのだろうとは、予想させる。


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「叔父さんの肩も盛りあがってる?」


「ふつうですよ」


「ふつう」というのは、塩田の仕事にたずさわるひとびとは皆、肩のつくりが変形しているのが当たり前、という意味だ。

 だが、この叔父さんの塩づくりも今年をもって終わるという。

 叔父さんの塩田はもともと彼の一族の別の人物の土地らしく、あたり一帯がデベロッパーにすでに買い取られホテル建設が来年からはじまるのだ。


 いまぼくの手もとに残っている塩が、ひょっとしたら彼の叔父さんから買った最後のものになるかもしれない。