帰ってゆく風景 ── 母、そして子 『100年前の女の子』を読む 最終回


「100年前の女の子」だった寺崎テイさんには、母と呼ぶひとはいなかった。

 テイさんが記憶している、あの懐かしい高松村の風景のなかに母の姿はいちども見なかったのである。


 1909(明治42)年8月10日、朝から雷がとどろき豪雨が見舞い、やがて猛暑となったこの日の午後寺崎テイさんは、母の実家で生まれた。
 ところが母は嫁ぎ先である寺崎の家にもどるのを拒み、生後1か月のテイさんだけがわずかの産着とともに寺崎家に送り届けられたのだった。


 父方の祖母ヤスはテイさんを背負い、乳飲み子のいる家を訪ね歩いた。


「村では、あのヤスおばあさんがしっかり者でキツイから、嫁が居つかなかったんだ、と蔭でいわれていたにちがいない。おばあさんは百も承知で、あちらの家、こちらの家と、暑いさなかから空っ風の吹き通る真冬まで、もらい乳をして歩いたのだった」


 2年後には父の再婚が決まった。
 そのとき、嫁側の家から「絶対に守ってほしい」という条件があった。それは、テイには寺崎の家を継がせず他家に養女にだす、という厳しいものだった。

 農家にとって「嫁」は妻としての立場以上に、家事の用さらに田畑の労働力として不可欠の存在だった。その重要性から推し量れば、この条件を認めざるをえない背景が寺崎の家にもあった。

 父の再婚相手の登場とともに、テイさんの里親探しがはじまったのである。
 

 けっきょくテイさんは里子としてあちこちに出され、小学校にあがる直前まで子どものいないある家に養子を前提に預けられていたが、そこでの幼い娘のみじめな姿を見届けた父は、正式な養子縁組の手続きに入る前にテイさんを寺崎の家にもどす。


 救われた、といってもいいだろう。過酷な環境から解放され、ようやく家族とともに過ごせる日々がはじまったのだから。


 とはいっても「テイには家を継がせない」という家同士の約束事はしっかりと生きており、テイさんが女学校を卒業した16歳のときに、故郷高松村をあとに単身東京にでる。

 ちょうど大正から昭和へと年号が変わった1925年のことだ。


                   *


 テイさんの100年にわたる豊かな記憶の数々に「母の思い出」はない。だが、「母不在の記憶」はテイさんのこころに深く刻まれている。


 現在テイさんは老人ホームであたたかい看護をうけて生活しているという。著者が訪ねると、


「ときには行くなり、私に抱きついて泣く。
 ──わたしにはおっ母さんがいなかった....
 しぼり出すように、呻くようにいう。
 泣かないで、というと、
 ──ちょっと、このまま、泣かせてください
 といって私の胸をぬらす」


 テイさんの記憶から甦った高松村の自然や生きものたち、懐かしいひとびとの姿、四季折々の暮らし、家族とともに過ごした時間、とりわけ祖母ヤスの温もりに満ちたことばやふるまい、ほめられたこと、叱られたこと、ありとあらゆる記憶が降りつもっていく間(あわい)に「母不在の記憶」もまた繰りかえし、折り重なるようにしてこころの奥に沈んでいったのだろう。


 老いた母の涙をみるのは、著者にとって耐えがたいほどにつらく悲しかったにちがいない。「口寄せの女」となり母の記憶を類のない「物語」として昇華させていったこころざしは、ひょっとしてそうしたつらさから生まれ、同時に悲しみを克服する作業でもあったかもしれない。


 著者が本書を閉じることばは、静かにこう結ばれている。


「百年前の女の子の魂はいま、生涯、片時も忘れることが出来なかった故郷、高松村に戻ってしまったのである」


 母に寄り添い、大きな仕事をなし終えた著者の「安堵感」さえ感じさせられる。

 そして、その大きな仕事は、読むものの魂をも高松村にしばし遊ばせてくれた。

(了)