帰ってゆく風景 ── 陽気なひとびと 『100年前の女の子』を読む 4

 

 この本を手にする前に、たまたま『逝きし世の面影』(渡辺京二)を読んでいた。それで、しばらくの間ふたつの本を並べて交互に読むことになった。


『逝きし世の面影』は幕末から明治にかけて日本にやってきた外国人たちの見聞記を著者が丹念にひろいあつめ、かれらの残したことばを再構成することによって当時の日本社会と日本人の姿をありありと浮かびあがらせる。

 昔の日本人とはこうだったのかと、驚くような記述がつぎつぎと登場する。すくなくとも歴史の教科書からは、あるいは現在の日本人の姿からも想像すらできない、ごくふつうのひとびとの意外な表情が見えてくる。

 
「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」(オールコック)


「西洋の本質的な自由なるものの恵みを享受せず、市民的宗教的自由の論理についてはほとんど知らぬとしても、日本人は毎日の生活が時の流れにのってなめらかに流れてゆくように何とか工夫しているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されてゆくことに満足している」(ジョージ・スミス)


「誰の顔にも陽気な性格の特徴である幸福感、満足感、そして機嫌の良さがありありと現れていて、その場所の雰囲気にぴったりと融けあう」(ヘンリー・S・パーマー)


「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ」(ディクソン)



 かれらの書き残したことばから立ち現れる日本人像は、純朴で好奇心がつよく、その表情に屈託のない笑顔をたたえ陽気にふるまう姿である。

 もちろん、『逝きし世の面影』のデータベースはあくまでも来日外国人の目に映った日本人、またかれらの経験を通じた印象である。だから、そこに一抹の疑問 ── 異文化というフィルターを通して描かれた姿をはたして「日本人そのもの」としてうけとっていいのだろうかと、ためらいのようなものを感じながら読んでいたのも事実だ。



 一方でバリについての、やはり外国人たちが書き残した数々の礼賛のことば、たとえばインドの故ネルー首相が言ったとされる「世界のあけぼの」──観光業者がそのまま使いたくなるようなキャッチコピーもどきのフレーズや、


「ひとがこんなに幸せでいられるかと思うほど.....憂いなき島民」


「天国のこちら側から詩人の夢にたどり着く近道」


「日焼けした女性がイブのいでたちをしている、忘れられた中世のコミュニティ、誰も先を急がない土地」


 など、多少歯の浮くようなことばも混じっているが、バリを楽園とみなすことばの群れと幕末明治の外国人たちの日本観察との近縁性も感じた。


 バリに住みはじめて間もない頃に知り合いのバリ人青年が、「バリはツーリストにとっては楽園かもしれないけど、ぼくらには...」と、吐き捨てるように言ったときの表情、あるいはまたべつの機会、ほかの知り合いに「きみはいつ見ても幸せそうだねぇ」とぼくが言うと、すかさず返ってきた「見た目だけだよ」という素っ気ない返事が、積極的にバリを評価することばとは異なるリアリティを言い表しているとも思っていた。


 ところが『100年前の女の子』を読んでいるうちに、いや、そうではないのかもしれないと、さっき書いた「一抹の疑問」も怪しくなってきたのであった。


 寺崎テイさんが育った大正期の農村共同体にくりひろげられる四季をめぐる暮らし、本書では「柿若葉のころ、村は忙しくなる」から「お正月様を迎える」までのわずか三つの章に描かれる栃木県足利郡高松村の農民たちの、豊潤としか言いようのないリズミカルで多彩な暮らし。


 テイさんの記憶から甦るのは、確かに上機嫌で満ち足りた陽気なひとびとの姿なのだ。


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 東京の隅田川以東を「川向こう」と昔は言ったが、その差別的なニュアンスを含んだ「川向こう」のさらにはずれ、荒川と中川放水路に囲まれナメクジのようなかたちをした「島」を埋める町工場や住宅、その隙間にわずかに残った畑地や国鉄駅周辺のさびしい繁華街が混在する地域で育ったぼくには、農村や農民の暮らしというものにはまったく縁がなかったのも当然で、だからこそ寺崎テイさんの記憶から生き生きと描き出された大正初期の農村生活、自然とひとびとが向かい合って共に生きる姿に驚きもし羨ましさも感じた。



「田植えのときは、田の神様がどこか近くに降りてきて見ておられるという。だから、植え手の女たちは早乙女と呼ばれて、とても大切にされた。田の神様のお祭りなのだから、この早乙女は、普段着ではなく、笠から装束まで全部新しくする」


 嫁いできた女性たちは、田植えの前に里帰りし英気を養い、実家から新調の野良着をたずさえて婚家にもどる。

 紺絣(こんがすり)の襦袢(じゅばん)に同色の股引を身につけ、赤いタスキがけに白てぬぐい。あたまにかぶる菅笠(すげがさ)には座りをよくするために内側にちいさな赤い布団をとりつけ、布団の四隅からは「黒い太い木綿糸でつくった房が」垂れ下がっている。

 早乙女は列をつくり、前からうしろに下がりながらいっせいに苗を植えていく。菅笠が動くたびに「赤い布団の黒い房の糸が揺れて、花笠のようにキレイ」な光景が、あたり一帯の田んぼに広がる。


 水を張った田んぼをリズミカルに動く若い早乙女たちの姿は田植え作業のハイライトであるが、「おばやんたち」も男衆もそして子どもたちさえ、たいせつな脇役としてこの光景に加わる。

 苗代から早苗を抜いて根ごと水で洗い、それをまとめて縛ってから箱や籠に入れて本田まで運ぶのはおばやんや子どもたちの役目だ。

 男たちは昼どきになると「大きな籠に重箱だの竹皮の包みだのをいっぱい背負って、ヤカンをぶら下げてくる」。
 田の畔にならんで座り、重箱につめられたにぎり飯、牛蒡とニンジンの煮しめ、沢庵、ショウガ、茄子やキュウリの漬け物、サケの塩びきのお菜(かず)をみんなで食べるのだ。



 田植えという重労働の場が、この日ばかりはまるで祝祭空間のように華やぎ、まるで祝福をうけたかのような男や女、子どもたちのようすは、著者がいうように「誰もが神を畏れ、仏を敬う心を持つことが出来た」時代のひとびとの、いわばふつうの姿なのかもしれない。


 八十八夜の茶摘み、蚕の飼育、八月のお盆、井戸の清掃、稲の収穫から庚申(こうしん)様の祀り、そして正月を迎える季節にいたるまで、一年をとおして村のひとびとは働き、祀りつづける。
 その「労働」や「祀り」からはときに演劇性にみちた遊戯的な雰囲気さえ伝わってくる。

 つねに人と人とが関わり協力しながら、それらの労働や祀りがおこなわれているのも大きな特徴だし、そこにはかならず笑顔にあふれた子どもたちの姿が飛び跳ねるように混じっているのも明白だ。



 民族や風土や文化、宗教その他もろもろのディテールの違いはあっても、この100年近くも前の日本の農村のありかたにバリの共同体との近似性がおのずと浮かびあがってくる。


 なんの説明にもなっていないのを百も承知で、単純にいえば、ひとが共に自然にむかいあって生きる、もっとも基本的なありかたがその近似性の核心のように思える。


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 今週半ば、バリでは210日ごとにめぐってくる「ガルンガン」の祭礼がひかえている。


 先祖崇拝とバリヒンドゥーの興隆を祝福する、俗流にいえば「盆と正月が一緒にきたような」華やぎがバリ中にゆき渡る。
 市街地も村も、家々の門口には数メートルの長さの竹に花や椰子の葉で飾りつけした「ペンジョール」が立てられ祖先の来訪を待ちうける。



 ひとびとは伝統的な衣装で着飾り、供え物をかかげ村の寺院、死者の寺院、家族ごとの寺院へと参拝にでかける。装い、集い、祈り、ご馳走を食べ、親族とともに時を過ごす。

 ガルンガンの10日後にはクニンガンの祭礼があり、祖先たちはふたたびもといた場所へと帰ってゆく。


 この季節のはじまる10日ぐらい前から、ひとびとはすこしずつ変わっていく。
 気もそぞろになり、ガルンガン直前にもなると仕事をしていてもなにやら心ここにあらず、祭りを迎える嬉しさがその表情やしぐさにあらわれてくるのだ。


 かれらバリニーズの顔に浮かぶ「幸福感」や「満足感」あるいは「機嫌のよさ」にあふれた表情に、ひょっとしてぼくは、かつて幕末明治期に日本を訪れた外国人によって観察された、わが父祖たちを見ているのかもしれない。

(つづく)