帰ってゆく風景 ── 包容力 『100年前の女の子』を読む 3
先日の日曜日、近所の美容室で散髪した。
目をつぶって髪を切ってもらっていると、表通りを行き交う車やバイクのヒステリックでせわしない音に混じって竹笛の単調な響きが耳に入ってきた。
目を開けると鏡のなかに通りを挟んだ向こう側の歩道を、白いシャツに焦げ茶色のズボンをはいたおじさんが、竹笛を口にあてながらゆるゆると歩いているのが見えた。
高い音色は、路上を突きぬける機械音を弾き飛ばすくらいに澄んで安定している。
竹笛の行商かな? と思い、「じょうずだねえ」と美容師に言った。
「ああ、あのひとね…」
彼女はそう言いながら、人さし指を立てじぶんの額の前で斜めにかざした。
このしぐさは、ここでは「狂っている」を意味している。「ギラ」と、そのものずばりのことばを口にしながらこのしぐさを見せるひともあるが、美容師は人さし指をかざしただけだった。
「朝から夕方まで、ああやって笛を吹いてるの」
「どこに住んでるの?」
「あのお店のオーナーの身内よ」
美容室とは道を挟んだむかいに構えている、2メートルも3メートルもあるテーブルの天板を売る家具屋を彼女は顎で指した。
すると買い物客は、この澄んだ笛の音色に耳を傾けながら品定めをするのかと、すこし羨ましくなった。
散髪を終え美容室をでると、むかいの家具屋の大きなテーブルの上にさっき笛を吹いていたおじさんが大の字になって寝ているのが見えた。
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日本からみえたひとに、時折尋ねられることがある。
「どうしてバリを選んだんですか?」
そのつど返事が違ったりもするのだが、さまざまに異なる理由のどれもがぼくにとっては事実であるし、それをあえてひとことで言い表すとすればこの島の社会とひとびとがもっている「おおらかさ」なのかもしれないと思う。
法律や規則、規範やマナーなどそれぞれの社会に備わっているいわば「タガ」のごときものは、しかし、じっさいのひとの暮らし、まして一個人の生き方にまで及ぶのは僭越ではないか、ひとが共に生活する場ではそういうお仕着せのタガではない、人間のこころや生理、人と人とのおだやかな結びつきにふさわしい「不文律」というものがあるはずだ。
その不文律さえ守られるなら、多少タガがゆるんだところで問題ではない。
簡単に言うとそういう社会であり、ひとびとなのだ。社会の包容力が、さまざまなひとのありかたを護っている。だから、ひとびともまた伸びやかにありのままでいられる。
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寺崎テイさんが育った栃木県足利郡高松村にも、この包容力に護られて生きていたじつに個性的なひとびとが登場する。
そんなひとびとのひとり「火の用心の照やん」のエピソードが印象的だ。
栃木といっても群馬との県境に近い高松村は、冬ともなれば赤城おろしの空っ風が吹き通しの土地柄だ。火事はひとびとのもっとも恐れる災厄であり、1軒の家から火が出ればまたたくまに村の半分は焼失してしまう。
そんな赤城おろしの吹きまくる冬の季節、12月から3月半ばまで照るやんは「火のヨーオオージン」と声をあげ、拍子木をカッチ、カッチと打ちながら村中をまわって歩く。これが村の役職というわけでもなく、ふだんは何を生業にしているのかわからない照やんは1年の4分の1、雨の日も雪の日も毎晩拍子木を打って村を歩く。
やがて春を迎える季節、照やんの「お勤め」は無事に終了し、テイさんの父が村中の家から集めた賃金をもらう。
5円だけはあらかじめ別にしておき、照やんの女房「お吉っつあん」に渡される。お吉っつあんは、亭主が夜回りしているあいだ留守を守り寒い思いをして帰ってくる亭主のために、こたつの火をかきまわして待ちつづけていた。
そんな「内助の功」への配慮もあるが、じつはこうして5円を別にしてお吉っつあんに直接渡すのも、もし照やんに全額渡してしまったらとんでもないことになってしまうからだ。
なんとこの照やん、ひと冬分働いた金を懐にいれるとましぐらに遊郭に走るのである。
しかも、
「何よりも照やんを名物男にしたのは、冬中働いたそのお金が無くなるまで、遊郭にいつづけをしたことであった。」
“居つづけ” といっても、照やんのもらった報酬ではせいぜい1週間か10日、それでもそんな真似はだれにもできないし、遊郭からもどってきた照るやんに村の男たちは根掘り葉掘り「極楽」のようすを尋ねるのだが、羨ましいとは思ってもやはりそれは我が身には無縁とあきらめる。
一方、照やんの女房のお吉っつあんの評判もすこぶるよい。照やんのような亭主に文句ひとつ言わず、また冬がくれば亭主の夜回りの帰りをこたつを暖めて待っているのだから。
村の女たちは、お吉っつあんを指してこれこそが「上州名物のカカア天下」ではないかと口々に言うのであった。
あるがままの暮らしを営むひと組の夫婦の姿が、村の共同体にぴったりと嵌まるひとつのピースとして高松村の風景のなかにおさまっている。
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2004年を最後に、ジャカルタへ行く機会もないままでいるが、以前なんどか訪ねたときにふっと溜息のでる光景をいくつか目にしたことがある。
首都のどまんなかに建つグランド・ハイヤットホテルが夕焼けに染まる頃、エントランス前の敷地にひとつ、またひとつと移動式屋台が姿を見せはじめた。
すこしずつ暮れていく薄暗がりに、裸電球を吊るした屋台が軒を並べるようすにこころが動いた。コンクリートとガラスの現代建築がそびえる足下に、蹴り飛ばせばこわれてしまうような(もちろん蹴り飛ばす必要はないが)ちいさな屋台が並ぶ。そのアンバランスな組み合わせになんともいえない心地よさを感じたのだった。
異なる要素のものが互いに排除せずに共存している姿が、心地よさの理由だったのだろうと思う。そのおおらかさや余裕のようなものがこの社会にはまだ残っているのだ、という安心感もあっただろう。
いま果たしてどうなっているのか、残念ながらぼくは知らない。
(つづく)