帰ってゆく風景 ── わたなべせんせい 『100年前の女の子』を読む 2
こどもの頃に通った学校の先生たちの姿を思い出すことがときどきある。
かれらが教壇に立っていた頃の年齢を遥かに超えてしまったいまのぼくは、あの若き教師たちのときに見せてくれた情熱が懐かしい。
中学1年のときの英語の担当は坂井先生という小肥りで小柄な30代も終わりの女性だった。縁なし眼鏡をかけ、それが鼻からずり落ちるたびにまるまるとした指先で眼鏡のブリッジをチョンと上に突いて位置をもどすしぐさが授業中になんども見られた。
My Bony Lies over the Ocean など、英語の歌をはじめて教わったのもこの先生の授業のときだったが、高い、よく通る歌声が教室に響いた。
あるとき、授業中、いちばん前の席の窓側に座っていたS君がとつぜんキャンバス地の白いかばんを小脇に抱え、坂井先生の真後ろをすり抜けると教室の外に飛びだしてしまったことがあった。
脱走である。
2回目の1年生だったS君は、当時はめずらしかった不登校児で毎日学校に姿を見せるわけでもなかったし、休み時間を境に「自主下校」してしまうようなこともあったが、授業のまっ最中に脱走したのはこのときが初めてだった。
「Sくーん! 待ちなさい!」
坂井先生は教科書を手にしたまま、S君を追って教室から飛びだした。
「待ちなさい!」という高い声が廊下にも響いたが、あまりにもとつぜんの出来事でぼくら生徒は茫然として、何が起きたのかを理解するのにすこし時間がかかった。それでも、S君の脱走だと気づくと、何人かの生徒は教室の外に飛びだした。
ぼくは急いで2階の窓から外を覗き、S君が早くも校門に達し、そのあと坂井先生が「Sくーん!」と叫びながら、タイトスカートで動きを抑えられた足をちょこまかと動かし、からだを揺すりながら走っていく後ろ姿を目撃した。
いったいどこまで追いかけていったのだろう? とぼくらが心配になるくらい長い時間がたってから、坂井先生が息を切らせながら教室にもどってきた。
顔から汗をしたたらせ、ブラウスは濡れた肌にくっついている。先生は、眼鏡のブリッジをツンと突いてから憤懣やるかたないといった面持ちでひとことつぶやいた。
「逃げちゃったワ…」
坂井先生のあの必死の追跡の姿は、ぼくに「このひとは信頼できる」という印象をいだかせた。「信頼」などということばを当時知っていたかどうかは怪しいが、要は、先生の熱意が共感としてつたわってきたのだった。
教室にいるS君を相手にする教師はあまりいなかったと思う。彼を指名して答えをださせようとするのも、なにか冗談まじりの余興めいたものでしかなかった。
できなくて当たり前、いや答えられるわけもないだろう、という「魂胆」が丸見えの教師の芝居。
教師は、ことばよりもその立ち居振る舞いや行動によってつよくその人がらを教え子に示す。こどもが幼ければ幼いほど、その影響力はことばではなく教師のありかたそのものから生まれる。
*
『100年前の女の子』にも、その振る舞いによってテイさんのこころに生きつづける先生がいた。
テイさんが小学校に入った1916(大正5)年、担任となった「わたなべせんせい」である。
正規の教員資格をもたないわたなべ先生は、代用教員として低学年のクラスだけを受け持っていた。もう若くはなかったせいか、本教員になるための昇進試験をたびたび受けているのだがいつも落ちてしまう。
でもこどもたちには人気のある先生だったのである。
そういえば石川啄木も、代用教員として故郷渋民村の尋常小学校に勤めた経験をもっているのを思い出す。やはり低学年の2年生を担当していた。
「このわたなべせんせいは、男の先生だが、よくとおる声がうたうように響き、お話を読んでもらうと楽しかった。ときどき、わたなべせんせいは南側の窓の近くに立って、外を向いて、声をいちだんと大きく張り上げて本を読んだ。」
こどもたちが窓の外を見ると、そこには小学校を2年でやめていまは年季奉公している「ヤッちゃん」が、赤ん坊を背負って、先生の読みあげるお話にじっと耳を傾けている。
奉公先では、きっと子守りの役目も負わされているのだろう。貧しさから学校をつづけられなかった女の子が、赤ん坊を背負い学校までとぼとぼと歩いてきては教室の窓の下にたたずんでいると、先生が特別に大きな声でヤッちゃんにも聞こえるように、いやヤッちゃんのために本を読んでいる。
「わたなべせんせいは、文字を書くときも、黒板の窓寄りの端に大きく書かれた。ヤッちゃんは、背のびをして黒板を見てから、棒切れで、地面にその字を書いていた。」
貧しさという境遇は決してひとりの人間に由来するものではないことを、ましてこどもがその境遇にあるのは運命としかいいようのない厳しい現実であることをみなが知っていた。
わたなべ先生だって、長いあいだ代用教員の立場に甘んじてきている。
先生もまた、じぶんの力ではいかんともしがたい現実に直面しているはずだ。
教員と元生徒、大人とこどもといった違いはあっても厳しい現実のなかではじつはともに同じ地平に立っている、とも考えられないだろうか。
だから、そこに生まれてくるのは他者への理解と共感であり、目には見えない絆でもありうる。
そんな絆をちいさなこどもの目はしっかりと見据えている。
他者への理解と共感、またことばを換えていえば他者へのゆたかな想像力に満ちたエピソードは、テイさんの「物語」にはいくつも登場する。
それらのエピソードが、テイさんの育った栃木県足利郡高松村という農村共同体を舞台にしているとはいえ、やはりひとつの時代にゆきわたっていた感受性から生まれているのも確かだ。
「わたなべせんせいは、それからもずっと代用教員であった。
でも、大人も子どもも、このせんせいを大好きだった。」
*
高校に入ると、坂井先生のご主人が地理の教科担当だった。
世間はじつに狭い。
その地理の坂井先生のほうが授業中の雑談でこんな話を聞かせてくれたことがある。
「ぼく、最低月に3冊岩波新書を読むのと、それから英語の本を1冊読むのがノルマなんだよ。奥さんにバカにされないようにね」
そのことばは嫌みでもなんでもなく、ぼくには懐かしい中学時代の坂井先生を思い出させてくれた。
またあるときには、
「ぼくら結婚したときにはホント貧乏でサ。内輪だけで披露宴して、それが終わってから、夜、ぼくは奥さんをアパートまで送っていったんだ。」
まだ一緒に住めるだけの余裕のある住まいも持てなかったのだ。
「彼女のアパートの前でね『じゃあ、また明日!』って言って、手を振りながらぼくはじぶんのアパートに帰ったんだよ」
ふたりを知るぼくには、すごく素敵な話に聞こえた。
(つづく)