揚水ポンプの音
数日前、フェイスブックに、あるインドネシア人のこんな投稿が載っていた。
「ひとはいつでも、気をつかってほしいと思っている。(そう思っている)ひとは、ほかのひとに対して気をつかっているだろうか?」
ひらたく言えば、お互いの気遣いや思いやりをうながしているのだろう。
思い当たる一件があったので、さっそくこの投稿にコメントを書いた。
「私の隣人は、朝・昼・夕の3回、ウチの玄関のまん前に揚水ポンプを持ってきては、側溝の水を汲み上げ自分の家の池に水を流し込んでいるけれど、ポンプの騒音に悩まされている私についてはまったく無関心のようだ」
投稿者からはすぐに返事があった。
「ハハハ、それもひとつの例だね。彼らは、自分らの必要としていることにあなたの理解と思いやりを求めるべきだったんじゃないかな、そうだろ?」
はぁ? 主客転倒してないかい?! 思いやりがほしいのは、こっちだって! だいたい、他人事だと思ってハハハはないだろ、ハハハは...。
*
突然すさまじいモーター音が家の前から聞こえてきたのは、10日ぐらい前だったろうか。
急いで表をのぞくと、隣のレストランのスタッフたちが揚水ポンプを囲んでいるのが目にはいった。
「魚が死んじゃったヨ」
「池の水がなくなったから」
モーター音に負けないような大声で、戸口越しにのぞいているぼくに向かって口々に叫んでいる。
ああ、そうなのか。
昼下がりに、やはりこの側溝の脇で魚をさばいているスタッフたちの姿を目にしたのを思い出した。てっきり、このところ増水している側溝で捕まえた魚をさばいているものとばかり思っていたが、あれはレストランにある池の魚だったのかとこのとき初めて知った。
それにしても、このポンプの絶叫音! オンボロだから、まるで機銃掃射かヘリコプター並みの爆音を小さなマシーンから休みなくがなりたてている。
家のなかでは話もできないし、ラジオの音も消えて聞こえない!
耳の底に棲む蝉の声もピタリとやんだ。
しかし、池の水がなくなったとはどういうことなのだろう? 池の底に穴でも開いたか? モーターの音がやかまし過ぎて、声にだして尋ねる気にもなれなかったが、ともかく、涸れた池への取水をウチの真ん前でやっているのだというのはよく分かった。毎度のことながらなんの断りもなく、いきなり始めたのだというのもよく分かった。
この日を境に、朝は6時半か7時ごろから約1時間、午後早々、そして夕方と日に3回、まことに規則正しくあたりの空気をつんざくこの取水作業が始まり、きょうに至っている。
朝・午・夕の日課になってしまった取水作業。数日前に、あの絶叫ポンプはとうとう壊れてしまい、昨日から新品に。爆音からふつうの騒音に変わった程度で、やかましいのに変わりはない。写真の敷石はウチの入口なのだ、ウチの。最初の頃は、ホースを塀の上に渡していたのに、いまや、塀に穴まで穿ってホースを通しているのが写真を撮っているときに分かった。
*
菓子折りのひとつでも下げて、これこれこういう事情でやむを得ずお宅さまにもご迷惑をおかけしますが、つきましてはなにとぞご容赦のほどよろしくお願い申し上げます──とかなんとか、ひとこと挨拶があって事がはじまってもよさそうなものなのに、などとは努々(ゆめゆめ)思うなかれ。
そんな他人行儀(?)なルールはここでは通用しない。
どういう事情で池の水が涸れ、いきなり取水が始まったのか? ひょんなきっかけからようやく納得がいった。
ある日の夕方、以前ウチで働いていた元庭師のワヤンが、小型トラックをウチの駐車場にひと晩置かせてほしいと言ってきた。
「雨に降られそうなんで、セメントが濡れるからここに置かしてください」
彼は荷台に積まれたセメント袋を指さした。
ずいぶん大量のセメントだけど、なにに使うのか聞いてみると、すぐ近くでスバック(水利組合)が工事をやっていて、彼もその工事にたずさわっているのだそうだ。
ああ、いいよ、とこたえると、「夜中に泊まりにくるから」と返事がかえってきた。セメントが盗まれないよう不寝番するらしい。
翌朝、スバックの工事現場をのぞいてみた。
川底までセメントを敷いている。たった数人の作業でいったいいつまでかかるのだろう? 作業頭に聞いてみたら「今日中に終わらせる」と言っていたので、あと数日はかかるだろう。レストランは左手。この水路の先から取水して、池に水を流し込んでいたのだ。
目と鼻の先で、こんな工事が始まっていたのも知らなかった。スバックの管理する用水路の護岸工事だ。隣人であるレストラン側とぼくの借りている敷地が挟む道を境界にして、用水路は南側がサカ村に、北側はマス村に所属している。工事は南側にしぼられ、水路は北側でせき止められて川の水はすべてウチの横を走る側溝に流されてくる。
そのせいで、このところ水量が増して水の音が絶えなかったわけだ。ゴミでも詰まって、溢れた水が流れてきたものとばかり思っていた。よくあることなので、気にもとめていなかったがスバックの工事が行われているのに気づかなかったのは、うかつだったかもしれない。
南側の水路は乾いて、護岸の工事が着々と進んでいるふうだった。
このようすを見て、ようやく合点がいった。
隣人は、この南側の水路から池に水を引いていたのだ。ところが工事が始まり、水路には一滴の水もないためレストランの池が涸れてしまったというわけだ。
早く言えよ。
そんなこと分かりきってるだろと、彼らの声が聞こえてきそうな気もした。
彼らにとっては──レストランの連中だけではなく、周辺の住人にとってはスバックの工事があるのは周知の事実だったのだろう。そのために、水路が一時的に閉ざされ、護岸工事が進められる段取りも。
共同体的事実。
みんなが知っているという意味では、ごく当たり前の事実を前提にすべてが進んでいたというわけだ。だから、なんの説明もないままに、いきなりウチの真ん前で取水が始まってしまうのもいわばシナリオ通りの展開なのだろう。
菓子折りなんか、シナリオのなかに出てくる幕はない。
しかし...。
*
しかし、この揚水ポンプの騒音も共同体的事実なのか?
ため息をつきながら、そうなのだと思わざるを得ない。
総じて、音に対する寛容性はここでは底抜けにおおらかだ。面と向かって話している人間から途方もない大声が、ぼくに言わせれば怒鳴り声が発せられても会話はなごやかに進む。からだのなかに、こいつメガホンでも仕込まれてるんじゃないか、と疑いたくなるような声量の持ち主も身近に知っている。
レストランやワルンでも、大きな音量で、(もういちど)ぼくに言わせれば不快なボリュームでガンガンとテレビやラジオをつけている。
「ちょっと音ちいさくしてくれる?」
と、従業員にかならず頼む。そういえば、このフレーズは住みはじめてまもなくすぐに覚えた必須インドネシア語で、使用頻度も高い。
なかには、ムッと嫌な顔をされるときもあるが、落ちついて食事もできないような騒音にさらされていたくはない。話にだって身が入らないではないか──というこちらの事情は、じつは、ここではあまり通用しないのだというのも分かっている。
実際、ワルンで食事をしている地元の人々を見れば、テレビやラジオの騒音、百歩ゆずって言っても雑音など気にもせず黙々と食べていたり、連れとふつうに会話しているのは日常の光景だ。
あのバカでかい音が、物理的に耳に入らないというわけはない。
でも、気にしないのだ。ただ、それだけ。
朝夕6時になると、マス村の中心からカウイ語の経文がスピーカーから流される。
遠くで聞いているぶんには、風にのってやってくるこのマントラは耳に心地よい。
同じように、年に何度か、周辺のバンジャールの若ものたちが中心に運営している寄付金集めのバザールも、開催中は深夜まで、最終日ともなると明け方まで大音量の音楽が風にのって聞こえてくる時があるものの、遠くで耳にしていれば騒音とはうけとらない。
でも、すぐ近所に住むひとたちにとってはどうなのだろう? そんな疑問をいちど知人にぶつけたことがある。
そもそも眠れるのか?
「う〜ん。ときどき目が覚めるけど、眠れるよ」
ぜんぜん、気にしないんだよね。
*
昨夕は、日課のポンプ騒音がおさまり静かになったなと思っていると、こんどはコロコロと笑い声が垣根のむこうから聞こえてきた。繁みの先にかがみこんでいる人影が見えるので、だれかが道端で休んでいるのかなと思っていた。
ふたたび笑い声が気になりだしたのは、それからすでに1時間近くもたってから。
すでに、薄く闇が降りはじめている。
あらためて戸口のむこうをのぞいて見たら、レストランの厨房スタッフが3人でなにやらやっている。
コロコロ、キャッキャッとやはり笑いころげていた。
えびの皮むきをしているところだった。この作業も、スバックの護岸工事がすみしだい、以前から馴染みの場所に移るのだろう。それにしても、この屈託のない笑顔を見ていると「川にゴミを捨てちゃぁダメ!」とも言えなくなってくる。
*
冒頭のフェイスブックの投稿者は、H.T. さんといい、バリのある建設会社に働くコントラクターだ。彼の仕事柄、工事現場で起きるさまざまな騒音・雑音、それに大量の資材ゴミやらで、きっと周辺住民から苦情をもちこまれる立場にちがいない。
そんな「境遇」からすれば、騒音に困っているんだよというぼくのコメントに対する反応は、逆に騒音をうみだす側の事情を理解し思いやってくれと、求めているように受けとれる。