草を刈る

 


 ウチの犬はよく吠える。

 家の前をただ通り過ぎていくだけのひとにむかっても、吠えている。「犬が西向きゃ尾は東」的明快さで、ひとを見ればかならず吠えている。躾のゆきとどかない犬なのだ。実際には、ある程度ひとを選んで吠えているのだけれど、3匹もいると、それぞれの犬が吠える対象は微妙に異なるので、けっきょく、おしなべて吠えているように感じる。やかましいったらない。


 やたらと吠える犬になってしまったのには、飼い主の躾不行きとどきもあるが、他方で、それぞれの犬が体験したトラウマもある。空気銃で撃たれたり、鎌で尻尾をちょん切られたり、脚の腱を傷つけられたり鼻穴を突き刺されたり、毒を盛られたりと動物虐待オン・パレードの苦くて痛い経験をしているから、それに繋がる記憶をよみがえらせる臭いを漂わせた人間が通れば...まあ、吠えるのは仕方ないのだが。


 よく吠えるけれども、幸い、いまだかつてひとを傷つけたことはない。それだけが取り柄だ。人間よりもはるかに平和的なのだ。



ミミ。生後1年前後に脚の腱を切られたり、毒を盛られたりと受難がつづいた。毒のせいで神経をやられたらしく、それまでは人懐っこい活発な犬だったのにすごくトロい犬になってしまった。いまでもときどきなにかを思い出すらしく、飼い主のぼくにさえ怯えた表情を残して逃げ去るときがある。


 昨夕6時ごろ、庭でミミが太い声をあげて盛んに吠えていた。ほかの二匹の犬はと見ると、部屋のなかやテラスで静かに寝ている。ミミだけがウォン、ウォンと吠えたてている。何に向かって吠えているのかと、その方角に目をやると──ああ、またか!


 見知らぬ人間が、庭の隅で草を刈っている。


 いままでなんども目にしているけれど、このひとたちはなんのアイサツもなくフェンスを乗り越えて入ってくるのだ。せっせと鎌を動かし、伸びはじめた草を脇目もふらずに刈っては、ふたたびアイサツもなくフェンスを乗り越え立ち去っていく。


 以前、やはりミミが、文字どおり西を向いて吠えていたことがある。見知らぬおっさんが西側の庭で草を刈っていた。
 近づいていくとこちらの気配をすばやく察したか、くるりと背をむけてしまった。意地になったわけではないが、こちらの姿がおじさんの視界に入るように向きを変えて歩をすすめた。
 すると、おじさんときたら負けじとばかりふたたびくるりと背を向けたではないか! 


「ぜったいにアンタの姿は目に入れないよ」と背中が必死に語っている──なにを勝手に語ってんだヨ、ひとの敷地に無断で入り込んでるくせに。
 つごう3回ほどくるりと背を向けたので、しかたなく声をかけた。

 バパッ!(この場合の「バパッ」は日本語的には「あのぉ」といったニュアンスだ。語義としては男性に対する敬称ではあるが。)と呼んだ。

 するとひとこと、


「牛ッ!」


 と返ってきた。

 そりゃ、誰が見ても、おじさんが牛の餌用に草を刈ってるのはわかる。問題はおっさんの飼っている家畜が牛なのか馬なのかを知りたいわけじゃない。
 勝手にひとの家に入りこまないでほしいだけだ。しかも、フェンスを乗り越えて...。

 それは本人もいけないとは知っているはず。だからこそ、地面にしゃがみこんだまま、拗ねた子どもがダダでもこねるように背中をむけて顔を隠していたのだから。


 これからは無断で入ってこないよう注意してからも、このおじさんの姿はその後なんべんか、おもに庭の西側で目にしているが、態度あらたまるようすもなく、相変わらず知らないうちにフェンスを乗り越えて入ってきては草を刈り、いつの間にか消えている。


                  *


 ミミが吠えていた昨日のご仁は、東側、パドマ(拝所)の前にひろがっていた繁みに向かい一心不乱に鎌をふるっていた。



このあたりが昨日の "現場” 。他人様に刈ってもらってると考えればいいや、とは思うけど、実際には乱雑にテキトーに刈りとっているわけで、いずれにしても後始末はこちらでしなければならない。


 そろそろ草刈りしなければと思っていた矢先、アカの他人が手を貸してくれている──と、この光景をとりあえず解釈してのち、「こんにちは」と声をかけた。


 そもそも、フェンスを乗り越え勝手に入り込んでいる人間に向かい、こちらから「こんにちは」はないだろうと思いつつ、適切なことばがみつからなかった。


「どこから入ってきたの?」


 と聞くのも野暮だけれど、いちおう尋ねてみたがこたえはない。
 うつむいたまま黙々と草を刈っている。


「ひとの敷地に入ってくるなら、挨拶は必要でしょう? ふつうは許可をもらってから入るものだよ」


「草刈ってるんだ」


 そんなこたあ、見ればわかるヨこの野郎、というセリフは胸にたたんで「刈り終わったら、門から出ていくように。フェンスは乗り越えないでくださいよ」


 そう告げて、刈り終わるのを門の前でじっと待っていた。

 しばらくしてから、ぎゅうぎゅうに草を詰めこんだカンピル袋を頭にのせて、おっさんがようやくやって来た。
 そして、通りすがりに、


「ジャワ人か?」


 と聞いてくる。


「日本人だよ」


「じぶんはバリ人だ」


 だから、無断でひとの敷地に入り込んで草刈りをしてもいいわけ?


「牛を飼ってるんだ。一匹」


 頭がクラクラとしてくるよ、会話にもならないこのやりとり...。


「断りもなく入ってくるんだから、犬に噛まれても責任はとらないよ」


 そう言って、門の扉をあけ黙ったままの彼を送り出した。


                   *


 工房の忙しさもひと段落したので、今朝はスタッフに庭の草刈りをたのんだ。3人の男手で交代に草刈り機をつかえば、伸びはじめた草もきょう明日ですべて始末できるだろう。



というわけで、トップバッターはワヤン。もともと庭師として入ってもらっていたのだが、工房の忙しさがつづいていたから、そちらでずっと仕事していたので庭の草刈りも久しぶり。きょうはあいにくの小雨模様の一日だったので、作業は明日に持ち越されている。


 刈りとるほどの草もなければ、おっさんらも無断で入ってくることもないはずだ。
 
 牛ッ! にはちょっと悪いけど。