あたりまえのことから世界と関わる(リー・ミンウェイ展の印象)

会場に入ると右手のL字型の白い壁面に色とりどりのボビンが間隔をあけ垂直に架けられている。大きな壁面を占領するカラフルな糸巻きのディスプレイだけでも、巨大なパレットのようなインスタレーションの印象をうけるのだが、そのひとつひとつの糸の先は、手前にある細長いテーブルの上に無雑作に山となって置かれているいろんなタイプの衣服やちょっと古くさいぬいぐるみに縫いつけられている。
展覧会場を訪ねたひとがあらかじめ用意しておいた身近な衣料品のそのほころびを、アーティストのリー・ミンウェイ自身が繕うというのが、このアートプロジェクトの狙いだ。
繕いつつ、ミンウェイは訪れた者とむきあい語り合う。
どんなやりとりがそこで交わされるのかは分からないが、展覧会場にあってはつねに「観るひと」であることを強いられる来場者を巻き込んで、作家がみずから色彩豊かな糸を針に通し、ひとびとの持ちこんだ布の穴をかがりほころびを繕う。
この「繕う」と題されたアートプロジェクトの萌芽は9.11に由来するという。
WTCが突然の攻撃をうけ瓦礫になったその時刻、リー・ミンウェイはパートナーとともに近くのプールで泳いでいた。それは奇跡に近い「幸運」だった。というのは、ミンウェイのパートナーは一瞬にして命を落とした400人余の彼の同僚と本来ならばWTCのオフィスで働いていたはずなのだから。
ふたりは現場に駆けつけた。
そこに茫然と立ちつくすひとびとを、彼らは手当り次第に近くにある彼らの住まいへ誘った。
見ず知らずのひとたちを。
ミンウェイはひとりスーパーマーケットに走った。あたまが混乱したまま、彼はやみくもにケーキを、そして、ふと「修繕しなければならない自分のシャツやズボン」のことが心に浮かび、針と糸も買った。
どうしてそんな買い物をしたのか、あとになってふりかえると見えてくるものがある。ミンウェイはこう述べている。<ケーキはバースデイケーキにつながるのだろうと思った。いま、ぶじに生きていることへの祝福として無意識のうちにそれを選んだのだと思う>
もうひとつは古代中国神話に登場する「女媧/じょか・ぬわ」に由来する話。
会場にあった説明では女媧は人間の女性で神と結婚する。ところがこの神さまは破壊好きというか、なんでもかでも壊してしまう。女媧はそれをひとつひとつ直していく。ある日、壊し好きの神さまはなんと天空に穴をあけてしまったのだ。女媧の手にかけてもこれは容易に直せるものではない。
女媧はすっと身を翻して空に飛び、みずからの身を天空の穴に縫いつけて穴をふさぎ地上の人間の破滅を救った。
みずからを犠牲にして空の穴を繕う──9.11の衝撃は、リー・ミンウェイのアイデンティティの神話的想像力の深さにまで及んだにちがいない。
確固とした現実が、疑うことも想像することも予測することもなかったかたちで崩壊する。その危機的状況になんの予告もなく放り投げられた彼が、無意識のうちに・とるものもとりあえずとった行動が「繕う」という作業だったのだ。
アートパフォーマンスとして誕生した<プロジェクト・繕う / The Mending Project >には、こうした背景があった。
                 


会場はいくつものセクションにわかれている(その詳細は、最後にのせたリンクを参照)。この展覧会情報ページにどういうわけか載っていないのが「手紙をつづる」というセクション。
広いセクションスペースに入ると、正面に三つのブースが並んでいる。
ひとつのブースの広さは、畳にして2畳ちょっとというところか。素木の腰高の板壁、上半分は障子、外から見るとその障子に、ブース内の光源を浴びたいくつものちいさな方形の影が間隔をおいて並んでいる。
ブースに履物をぬいで入ってみて初めてその影がなんだったのかが分かった。
さまざまなサイズの定形封筒である。
ブースの中にはテーブルと椅子、あるいは和風の書きもの机に座布団が用意され、そこで、誰かに宛てて手紙をつづる、という仕立てになっていた。リー・ミンウェイ展のキャッチコピー「参加することもアートなんです」が、こんなところにも仕掛けられている。
すでに書き上げられた手紙は封筒に入れられ、障子にそってつくらている三段の棚に立てかけて並んでいる。ブースの外から見えたいくつもの淡い影は封書の影だったのだ。
細幅の棚に立てかけられている封書は、封が糊づけされていないものは読んでもよいという説明書きがあった。
そこで、目の前にある洋型2号の白い封筒を手にとった。宛先は「おじいちゃんへ」となっている。
便せん1枚のその手紙を読みはじめてハッとした。
「年を越すことのできないおじいちゃん、来年はもういないんだね」
筆圧の強い、鉛筆で書かれた文字は中学生か高校生男子のもののように思えた。
病床にある彼の祖父はすでに余命いくばくもない、そのことが、思春期にある彼のこころを占める「重さ」になっているらしい。祖父と交わした会話や祖父から教えられたことの数々を、彼はふりかえっていた。そして、締めくくりはこんなふうに終わっていた。
「おじいちゃん、向こうにいっても元気でいてね。
 ぼくが会いに行くのはまだまだずっと先だけど、楽しみに待っててね」
いくつも重なりあった偶然の結果、ぼくはある少年の手紙、逝きつつある彼の祖父に宛てた手紙を読んだ。名前も顔も知らぬひとたちのきわめてプライベートな関係と生の断片をかいま見ることを、手紙という形式によって、しかもいちばん重要なのはアートパフォーマンスという表現の場で、結果など予期せぬまま体験させられたのだ。この衝撃、そしてあとからじわりと伝わってくるぬくもり。
ブースを出るとき、入り口で脱いだスニーカーに足を突っ込んだ瞬間、不覚にも涙があふれてとまらなかった。


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先にも書いたように、この展覧会会場はいくつものセクションに仕切られ構成されている。それぞれのセクションのテーマは、いま書いた「手紙をつづる」であったり「繕う」であったり「食べること」「眠ること」「リビングルーム」といったもので、それぞれがアートプロジェクトとして来場者の参加をうながすスタイルになっている。
提示されているテーマはきわめてありふれた日常の営みであり、どれひとつとっても例外なくぼくらが日々ふるまっている行為なのだが、そのふるまいがリー・ミンウェイの仕掛けを通していつのまにか他者とのあるいは世界との関わりへと変換してゆく。その過程の自然な流れ、おだやかな時間、やがてこころの奥に染み入ってくる温かさ、展覧会場を出るときのすがすがしさはいまだに忘れられずにいる。
http://www.mori.art.museum/contents/lee_mingwei/…/index.html
Naruse Kiyoshi's photo.