こども、こども、こども

 いま、工房には6人のスタッフがいる。
 そのうちのひとりは今週の火曜日から“産休”をとっている。父親になったのである。ふたり目のこどもだ。同じ日、べつのスタッフが昼休みに入るなり、そそくさと帰り支度を始めた。どうしたんだろうと眺めていると、目の前にやってきてこういった。
「妹が出産したという知らせがあったので、きょうは半日出勤にします」
 叔父になったのである。で、仕事をほっぽりだして帰っちゃうのである...。
 半日出勤にします! というかれの有無をいわせぬ言いっぷりに、こちらはうっかり「おめでとう」というのも忘れてしまった。

長女2歳、次女は生まれたてのホヤホヤ、生後3日目。
 来月は、さらにふたりのスタッフが父親になる予定である。初産、それに第二子の誕生を控えている。
 こどもが生まれるというのはおめでたい話に違いない。それはよく分かっている。しかし、である...。
 かれらの経済状態をよ〜く知っているぼくとしては、こころの底から「おめでとう!」というわけにもいかないのだ。とくに、ここ1、2年の物価上昇の勢いは、いままでにないインフレ傾向を示している。かれらのそれほど豊かではない収入からして「産めよ殖やせよ」などといってる場合ではないはずなのだ。とくに、選挙のたびに「無償化」がうたわれている教育費が、逆にどんどん高くなっている。
 民主党のマニフェストに掲げられた「こども手当て」というのを、じつはぼくはもう何年も前から子持ちのスタッフに対して実施している。扶養手当とはべつにである。しかし、こういうのは小手先の算術にしか過ぎない、いや、民主党の政策ではなく、ぼくのやり方が、です。念のため…。

この4月に結婚、11月にはパパとママに。ん?..ん?

同じく来月、第二子誕生の予定。長女は今年から幼稚園。
 現在、家事を仕切っているお手伝いさんも含め既婚者は5人で、まだ若いかれらのこどもの総数は7人。そのうち、驚くなかれ男の子はたった1人なのである。これはなにを意味するか? 男性天国? それもあるだろう。恐ろしいのは(ぼくは、恐ろしいと思う)、かれらは男児出産、お世継ぎ誕生をめざしてさらなる「産めよ殖やせよ」路線を突っ走るんじゃないか、という懸念なのだ。「こども手当て」だってバカにならない総額になるはずだ。
 父系制社会ならば男の子誕生の願いは、どこでも似たような事情だろう。さらに「バリ的事情」も加わると話はもっと深刻になる。バリのひとびとにとって、跡継ぎは家系存続の問題であると同時に、かれらにとってもっとも重要な死の儀礼にもかかわってくる。親からすれば、継承男子がとりおこなう葬儀によってかれらの魂が安んじて昇天するのを望むからだ。男の子誕生は、かれらの人生最後を飾る儀礼を執りおこなってくれる人間が確保できたことを意味し、だからこそ安心して生き、死んでいけるのだ。これはバリのひとびとの死生観をささえる要素であり文化でもある。

お父さんに抱かれた長女(2歳)、お母さんが抱いているのは従姉妹。この従姉妹には生後半年の妹がいる。 
 昨年、ウチのお手伝いさんの家に不幸があいついだ。彼女の実兄がわずか30代で亡くなり、その後ひと月あまりしてお父さんが亡くなった。3人兄妹のうち、男子はひとりだけだったので、父親のショックは相当のものだったのだろう。惚けたような毎日を送っているうちに、ある日突然亡くなってしまった。彼女の家族たちは遺産を狙った親族のブラック・マジックのせいだと考えているらしいが、ぼくにはそうは思えない。
 跡取りをすでにもった父親として、安泰の日々を30年以上にわたって過ごしてきたにもかかわらず、老いてじぶんの死について思いはじめるその矢先、突然息子を喪ってしまった驚きと哀しみ、じぶんの葬儀を主宰するはずだった息子がじぶんよりも先に逝くという降ってわいた不運、命の芯まで萎えてしまうような心細さと不安がかれを襲ったのではないだろうか。
 もしかれの死にマジックが介在していたとすれば、逆説的ではあるが、それはバリのひとびとが強く抱いている死生観とその背後にある文化、そして父系制社会の「掟」そのものだ。それこそが、かれの不安や焦りをいやがうえにも駆りたてたのではないだろうか。
 初めて父親になるスタッフとその奥さんに尋ねてみた。

お気楽独身コンビ。
「男の子と女の子、どっちが欲しい?」図らずもふたりが口をそろえて言った。「無事に生まれてくれれば、どちらでも」「というのは、誰でもいうけど、本音はどっち?」とたたみかけると、「そりゃ男だけど」と笑いながらこたえた。
「事実をうけいれるしかないですよ」
 といったのは、べつのスタッフ。それでも、たてつづけに女の子ばかりだったら、どうする? と聞くと。
「養子をとるでしょうねえ」とつぶやいた。
 もちろん、そんな話は若い彼らにとって遥か先のつかみどころのない話題ではあるが、ひょっとしてのっぴきならない現実として訪れる将来かもしれない。養子縁組という方法であれなんであれ、事に臨んでは柔軟であれと願っている。