森の変容 2

 Bさんを誘ってモンキーフォレストを訪ねた。かれの気がすすまないのは承知しているが、どうしても現場に身をおいて聞いてみたいことがいくつかあったからだ。「現場」といっても、もちろん駐車場建設現場ではない。繊細なかれの神経を逆撫でするような所で話をする気もないし、そもそも炎天下、工事現場にたたずんで土埃を浴びるなど論外だ。
 ところが、ぼくを助手席に乗せてみずから運転するBさんは、車を、なんと工事現場の前に駐車させたのだ。
「ここに置いておいたほうが、タバナンに行くのに便利だから」
 とかれは言った。ここでの用事をすませてから、タバナンに一緒に行くことになっていた。だから、かれのことばを補えば、嫌だけど仕方ない、ここに車をとめておこう、となる。たしかに、そうだ。
 車からでると、ぼくは真っ直ぐにプラ・ダレムのほうへ歩きはじめた。ところが…ここで再び「ところが」である。工事の世話役をしている村のひとたち(いわば駐車場建設推進派だ)に声をかけられて、Bさんはにこやかにかれらと立ち話をはじめているではないか。
 さすがバリのひと。じぶんの感情をやたら面にださず、しっかりと胸の内にしまいこんでひとと接する。ときには、その演劇性に富んだふるまいに、未熟なぼくが辟易させられる場面を幾度も目にしている。
 だが、かれらの「ルール」はかれらをしてその表情からふるまいまで、しっかりと制御しているように、ぼくには見える。

 プラ・ダレム前の巨木ブリンギン(ベンガル菩提樹)の木陰に腰をおろし、Bさんが来るのを待っていた。ここに来たのは、ほんとうに久しぶりだ、おそらく10年ぶりくらいか。それよりも前、たしか97年頃に、いちど、Bさんと深更この寺院の中でメディテーションをしたのを思い出していた。
 世話役との短い会話をすませたBさんも隣に腰をおろす。ぼくは、なにを聞きたかったのだったか? ふと迷った。「クソッ! と思う相手ともなごやかに話をするヒケツは?」という不躾な愚問は飲み込んだ。
 ブリンギンを見上げると、八方に枝がひろがり午後のまだ強い日差しが木漏れ日となってぼくらに注いでいる。このブリンギンが見てきたもの…そうだ、記憶について考えていたのだ。
 いま、ぼくらはこの森をふたつの領域としてとらえている、というのは前回書いた。観光スポットとしてのモンキーフォレスト、そして死者の寺院あるいは深層の寺院と呼ばれるプラ・ダレムをつつむ森。いま目の前にあるふたつの領域が、あまりにも当たり前の姿となってしまっているが、ぼくのおぼつかない記憶をたどってみても、けっしてこれが昔からこの通りであったわけではなかったのは明瞭だ。

 92年に、初めてモンキーフォレストに足を踏み入れたとき、この森はもっと暗く、深い印象があったはずだ。猿の親子がかわいらしい、などというガイドブックのコピーにでてきそうな印象などツユほども抱かなかった気がする。
「モンキーフォレスト」はかつてはモンキーフォレストではなかった、たぶん、そのことを確かめたい、というのがわざわざBさんを呼び出し、ここで話してもらいたかった理由だ。
 傍証がある。
 1986年に出版された『バリ島不思議の王国を行く』(大竹昭子著、新潮社)が、ぼくの知るところ、バリを一般向けに紹介した日本で初めての本である。書き出しがデンパサールから始まるところは、植民地時代もふくめ、かつてバリにやってきた多くのひとびとと同じ「入り口」から旅がはじまるわけで、いま思えばとても興味深い。
 この本は、フットワークの軽さと旺盛な好奇心、丹念な資料調査に裏づけられ当時のバリを驚くほど網羅的にとりあげている。
 しかし、この本のなかに「モンキーフォレスト」の記述は見当たらない。
 10年下って、1996年、すでにバリに住んでいた伊藤博史さん、佐藤由美さん、カメラマンの渡辺赫さん三人の共著『バリ島楽園紀行』では、本の扉に描かれた絵地図に道路名としての「MONKEY FOREST」が、その隅に二匹の猿がピーナッツを手にして嬉しそうに身を躍らせているイラストが載っているだけで、本文ではやはり触れられていない。
 だが、うえの伊藤、佐藤ふたりの著者にあらたな1名を加えて今年3月に出版された『バリ島ウブッド楽園の散歩道』では、モンキーフォレストについての記事が写真つきで見開き2ページにわたっているのである。
 たった3冊の本をもとに、なにかを言おうとするのは危険である。ただ、「モンキーフォレスト」が取り上げられる、ざっくばらんに言えば、商品価値が発生した時期がどこかで生まれているはずだ、という点は念を押すように言っておきたい。

 資料の探索は、ぼくにはこれ以上できない。だから、Bさんに語ってもらいたいわけである。かれの身体にしみついている濃厚な記憶をもとに、モンキーフォレストあるいはプラ・ダレムをつつむ森とはなにか、そしてその変容を。
 森の記憶に分け入りながら、バリの、いや、ひょっとしてぼくらの「現在」がみえてくるかもしれない。
(つづく)