Back to the Future 後編

 スタッフの生まれ変わりの話を聞きながら、ンガルアンのやりとりのなかでぼくの興味をひいたのは、かれらが「誰の」生まれ変わりだったかということよりも、話のなかにしきりにでてくる「バヤール ウタン / bayar utang」という表現だった。直訳すれば「負債を払う」という意味だが、かれらの話している文脈ではもう少し軽いニュアンスで「借りを返す」というふうに解釈できる。
 「借り」とはなにか?
 ンガルアンのお伺いには、どうやらふたつの目的があるらしい。新しい生命が、先祖のうち誰の魂を宿して誕生してきたのかを知るのがひとつ。その魂がふたたび地上にもどってくるにあたり、どうも、あちらのほうでなにか「借り」をつくったらしい。 その「借り」の内容を知る、というのがもうひとつの目的のようだ。
 その借りとは、この世にふたたび生まれ変わってきた暁には、それを実現してくださったお返しに「これこれのもの」を捧げます、ということらしい。この「これこれのもの」が借りにあたる。
 再生にあたっての契約とも約束ともいえるし、ことばは悪いが「取引」ともいえそうだ。もちろん、赤ん坊に代わって、両親がその借りを返すわけである。
 これが、拍子抜けするくらいシンプルな借りで、たとえばスタッフのAjのこども(曾祖母)の場合「お供え物を、市場にある寺に奉納しておくれ」というものだった。お供え物というのが大勢のようだが、なかには家のサンガー(屋敷内寺)に祭礼のつど飾る傘であったり、やや負担のかかるものではバビ・グリン(!)というのもあるそうだ。

 輪廻転生については、世界中にさまざまな考え方があるのだろう。ぼくがこどものときでも、それを当たり前の事実のように話す大人が少なからずあった。伯母さんのところでさ、このあいだ生まれたこどもの手首に赤い痣があったけどネ、あれはお祖父さんが死ぬときに、いつか生まれ変わったのが分かるよう、手首につけた印しと同じだったよ、あの子は、お祖父さんの生まれ変わりなんだねえ、というふうに。
 いま日本の仏教の世界では、輪廻転生をどのように説明しているのかは知らないが、チベット仏教の世界では『チベットの死者の書』に見えるように、ひとの魂が輪廻の輪からぬけだせるよう、僧侶は「バルド・トドゥル」という経を死者にむかって唱えつづける。いわば生まれ変わりを「阻止する」ための道案内だ。
 もともと仏教には、ひとの生を「苦」とみなす基本的な姿勢があるから、輪廻転生とは当然、その苦の繰り返しにしかすぎないとみる。だから、輪廻転生を仮に認めたとしても、それは過去の魂が救済されなかったことの証ともいえよう。借りをつくってでも、ふたたびこの地上に生を享けたいというバリニーズの輪廻のとらえかたとは対極にあるような考え方だ。
 仏陀は、「死後の世界」についてはそれがあるともないとも決して語らなかったといわれるが、語らなかったことの正しさゆえにぼくはかれの教えに耳をかたむける気持ちになる。

 話がそれた。
「ところでさあ」と、ぼくは並んでいるスタッフに話しかけた。
「バリでは、大きな儀礼になると犬までお供え物として犠牲にするよね」
 かれらはうなずく。
「そのときに、犠牲になった犬はかならず人間として生まれ変わってくるってみんな言うけど、ンガルアンのときに『犬の生まれ変わりだ』って言われた赤ん坊っていたわけ?」
 いない、いない、という答えがいっせいに返ってきた。「そんなこと言われたら親は怒るに決まってるよー」と、Baが言った。
 でも、犬はいつだって人間に生まれ変われると約束されて犠牲になってるわけでしょ、どうして犬の生まれ変わりのひとがバリにはいないわけ?
 確かにそうだ、とスタッフはみんな神妙な顔になってしまった。
 ゴメン! おじさん突っ込んじゃったりして。