昨日のつづき、のようなもの

 Tjandra さんのコメントにあるクスルパン/ kesurupan(憑衣)はインドネシア語であり、バリ語のクラウハンとほぼ同じ意味でつかわれているようだ。
 インドネシアでは毎年5月になると、高校に始まり中学校・小学校の生徒までいっせいに進級・卒業の試験が行われている。そして毎年、この時期になるとTVのニュース番組で試験をひかえた学校の生徒が、集団でクスルパンになったと報じられる。Tjandra さんのコメントにあるように、たしかにジャワでよく起きている。
 あ、またか、といつも思うのだが、ほんとうに懲りずにこのニュースが毎年報道されている。ちょうど、レバラン休暇のたびに、帰省するひとびとが毎年のように何十人も交通事故で亡くなるという報道と、ことばは適切ではないかもしれないが、双璧をなしている。
 クスルパンになった生徒、おもに女子生徒だが、彼女たちが教室で悲鳴をあげ卒倒し級友や先生に抱えられ介抱されている場面が、ブラウン管いっぱいに映しだされる。おろおろとしている生徒、そばで泣いている女子生徒の姿もなにか痛々しい印象をもたせる。こういうシーンでは、かならずといっていいくらい「悪ガキ」も画面の片隅に映るのだが、やはり二、三人の男子生徒がからだをからませながら、TVカメラに向かい少し離れた場所でポーズをとっていたりする。ひょっとしてもう慣れっこになってしまっているのかもしれない、視聴者と同様に。
 この集団ヒステリーにも似た現象は、試験に臨んだ際の極度の緊張がもたらした結果なのだと思うし、女子生徒に多いのも、思春期にある彼女たち独特の心理的連鎖反応なのだろう、といつも単純に考えていた。
「バリ・ポスト」の昨日の記事を読んだときにも、この試験の季節恒例のクスルパンを思い出したのだが、時期が違うし、つい最近のニュースによれば来年度からこの全国いっせいの試験は廃止されるはずだ。生徒への負担があまりにも重く、自殺者までだしてしまう評価基準の高さに制度そのものの見直しが必要とされた結果、と聞いている。
 だからバリでのクラウハンの現象は、この定番ヒステリーとはわけがちがうのである。
 話の向きはとつぜん変わるが、つねづね「バリ・ポスト」の記事のいい加減さ、言い換えれば記者の力量不足にア然としているけれど、昨日の記事を書いた記者にも変わらぬ印象をもった。ちゃんと取材しろよなぁ〜、と不満がつのるのだ。
 全校生徒の数は何人か? クラウハンになる生徒のうち女子と男子の比率は? 学年では何年生に多いのか、それとも全体にわたるのか? 一日5人というのはいつも同じ顔ぶれなのか、それとも日替わりメニューのように変わるのか? 教師の話は? クラウハンになった生徒に話は聞いたか? クラウハンの起きる状況になにか共通性はあるのか? 校舎の敷地は、かつて本当に川を埋立てて整地したいきさつがあるのか? きみはまだ駆け出しかぁ〜? と思わず聞きたくなってしまう内容だ。
 実際には、この記事でぼくの興味をひいたのは、記者が「クラウハン」をはじめいくつかのバリ語をインドネシア語におきかえずにそのままつかっていたことだった。
 憑衣という、一般化してもなかなか理解しにくい、本来はそれが起きる民俗社会の文化を背景に考えるべき現象は、やはりその社会に通用している言語でとらえるべきだろう。
 そのなかでも、バリ特有の世界観である「スカラ/sekala : 目に見える世界」「ニスカラ/niskala : 目に見えない世界」ということばは、学校で起きた憑衣現象だけではなく、バリのひとびとの日々の生活とかれらの行動を説明するのにとても重要な概念だ。だからこそ、記事の内容も最終的には霊能者の話へ、かつて棲息していていまは精霊となった生きものたちの「存在」に転じていくのだろう。
 こうした概念を、新聞の一般記事で直接バリ語であらわしている点や内容に興味をいだきつつも、同時に理解のむずかしさをあらためて感じた。
 新聞記事の文脈では、このことばを日本語になおすのにひと苦労したすえ、ぎごちない訳文になってしまったのが残念だった。
 なにせ、まだ駆け出しなもんで…。