再編への途はけわしい 2  からだは「ひとつ」

 この2か月、工房の仕事は、それまでの「閑古鳥インフルエンザ」に感染したかのような境遇と比較すれば、それこそ猫の手も借りたいほどに多忙をきわめている。

 こういうときにはいつでも、お手伝いの“夏目さん”のお姉さんに助っ人に来てもらい、下ごしらえの作業を頼んでいるが、こんども同様。
 ときには夏目さんまで、掃除をさっさと切り上げて(これには、やや不満はあるものの)お姉さんの横に楽しそうに座ってバナナの茎を切ったり、煮あがった材料を洗ったりしている。

 それからもうひとり、バイクのメインテナンスにときどきやってくる青年が、じぶんの仕事が暇なときには、自主参加のかたちで手伝いにくることもある。

 しかしやはり、主要な仕事は残留組のダルビッシュとトゥンパンこと“三角ご飯”にゆだねられ、この時期を、わずかふたりで(もちろん、ぼくも含めれば3人だが)乗り切ってきたのを見れば、彼らの能力は並を超えて優れているといっていいだろう。


 ところが、前回書いたように、紙の厚さ(薄さ)を一定に漉くのがどうもうまくいかない。こんなものは(といっては語弊あるが)経験とカンでなんとかなるものなのに、どうも安定した漉きかたができず、本人たちも困惑している。
 ちなみにダルビッシュの経験年数は1年4か月、三角ご飯は2年半。この年数の経験は、けっして不足しているとはいえない。

 では、カンが鈍いのか? そういう面も否めないが、じつはもっと根本的な「モンダイ」があるのだ。

 それはかれらが典型的なバリ人だから、とぼくは観察している。


 去年、H.I.S. の「バリフリーク」誌の取材をうけたときの記事と写真がこのリンクにある(ファイルがPDF形式なので、バリではダウンロードするのに少し時間がかかるかもしれないが、見ていただかないことには話は先にすすまない)。
 
 この記事は、簡潔にバナナペーパーづくりのプロセスをまとめている。なかでも「ソフトタッチで / 紙漉き若衆総動員」とコピーがかぶさっている写真は、ぼくの工房での紙漉きのごく日常的なシーンである。

 写真は、2m×3m の漉き枠(フレーム)に総勢7人のスタッフがかがみこんで紙を漉きはじめているところ。実際に写っているのは9人と1匹だが、取材者の豆次郎さんに「コレは、こうしてこうやってですね〜」とかなんとか言いながら説明しているぼくの姿と、3月に病死した愛犬チェリーがスタッフを励ましがてら水を飲んでいる姿も入っているからだ。


 いつ見ても、まるで田植えでもしているような様子だが、これがいままでダルビッシュと三角ご飯が紙を漉いてきたやりかたなのだ。
 多人数による完全な共同作業──。

 しかもかれらは、というのは写真のなかのスタッフたちだが、ふだんからぼくの見るところ、無意識のうちにじぶんたちのからだを一体化した状態で作業をすすめているようなのだ。
 4人いても7人いても、かれらのからだは「ひとつ」なのである。じぶんの意識よりも、たがいに結びあっている身体性に埋没して作業をしている。

 手(からだ)は動いているが、うわの空、意識はべつのところにある──おしゃべりの内容にだったり、子どものことだったり、あらぬ妄想であったり、と。
 リズミカルに、共鳴しながら、溶けあってひとつになったからだ、としてかれらは作業をしている。


 だから、信じられないような間違いがときどき起きることもある。

 もし、ひとりでもふたりでも、かれ自身の経験とカンに照らして、いますすめている作業が誤りだと気づけば、そこで訂正の機会が生まれるはずなのだが、そういうケースはきわめて稀なのである。
 だから、その過ちがなぜ起きたのか追及しても、誰ひとりこたえられない。
 なぜなら、「みんなでやっていること」にじぶんの行為が溶け込んでしまっていて意識化されていないからだ。
 それほどの一体化。


 人類学では古典的な文献『バリ島人の性格』(グレゴリー・ベイトソン、マーガレット・ミード著、 1942)にこんな記述がある。これはバリ人の集団が共同作業をしているときのおしゃべりの様子を観察したものだ。

「忙しくたちはたらく集団のおしゃべりを一時間のあいだ盗み聞きして、一語たりとも聞き漏らさなかったとしても、彼らが供え物を作っているのか、絵を描いているのか、あるいは食事の用意をしているのかは、結局わからずじまいになる。」

 からだの動き(作業)がことば(意識)とまったく無関係のまま、自動的にすすんでいくのである。からだは、ほかのひとびとと一体化した動きにあわせて動いているだけである。

 こうした観察から、
「バリでの学習はどれも、ある程度まで人と一体化できるかどうかにかかっている」
 という結論が生まれる。

 他者と一体化することを通して、からだの微妙な動きやコツなどまで学んでいく。そして、共同の作業に従っていける、ということだろう。

 この分析が正しいかどうかは、ほんとうのところわからない。ただ、スタッフとしてのバリ人と長く仕事をしてきた経験からは、かなり「当たっている」ようにぼくには思える。

 
 話をもどすと、ダルビッシュと三角ご飯は、それまでに彼らがもっていた、仲間たちと一体化していた身体性を甦らせることができずに戸惑っている、というのが現状なのではないだろうか。
 たまたま彼らは、スタッフ全員のなかでももっともあとから加わってきた人間だから、当然、以前からいた連中にそのからだを溶け込ませてきたのである。

 いまのダルビッシュと三角ご飯は、いわば「規準軸をうしなった身体」をかかえている、とでも形容できるのかもしれない。
 この状態を長くつづかせるわけにはいかない。そこで昨日、ちょっとした実験をはじめた。来週もこの実験はつづけるつもりでいる。


 どういう結果がでるか、いずれ「報告」する機会があるかと思う。