追従しない犬  閉じていく思い出のそのなかに 1

 今日は、日本からやってきている友人のSさんがぼくの家を訪ねてきた。

 バッグを置くなり、チェリーの墓に線香をあげ祈ってくれた。その瞬間、チェリーがからだを左右にふるわせ尻尾をくるくると振って大喜びしている“イメージ”がとつぜん湧いた。目に見えるように、そのイメージは降って湧いてぼくの気持ちをなごませてくれた。


5月5日、七七日の忌に。


 チェリーはけっして人懐っこい犬ではなかった。どちらかといえば、警戒心が強いというか、めったなことではひとになつかなかったが、Sさんがまだバリに住んでいたころには、よくぼくの家に遊びに来ていたもので、そのかれには、ふつうは見せないほどの甘えたしぐさを見せていた。

 ぼくの記憶では、元気だった頃のチェリーがなついていた客人というのは、このSさんぐらいだろう。

 初対面にもかかわらず、吠えないどころか尻尾を振りながら近づいていって親しげな様子を見せたのは、昨年3月に初めてバリにいるぼくを訪ねてきた甥っ子と、最後までチェリーの介護に尽くしてくれた丁稚のダルビッシュが、かれの故郷からウチに働きにやってきたそのときぐらいのような気がする。


「追従は、イヌがもつ最悪の欠点の一つである」(コンラート・ローレンツ『人イヌにあう』)というのが事実とすれば、チェリーはその欠点をまぬがれた犬だったといえる。
 追従は「すべての人間や成熟したイヌにたいして示す、みさかいなしの甘えと奴隷根性が持続していることに由来する」と、ローレンツは述べている。


 ことばを換えれば、飼い主に忠実な犬は、やたら他人に追従しないということだろう。


「忠節」というのは、ある意味では哀しいくらいに犬に備わった性(さが)ではあるのだが、しかし飼い主としてはこの忠実さは、犬とのコミュニケーションにとってなくてはならないものなのである。

 すぐれた犬がいかに主人のこころを読むかという話も、ローレンツの本には紹介されているが、ぼくもまったく同様の経験をしているのでチェリーの思い出として語ってみたい。


 あるとき、ぼくは自宅でやや険悪な会話をあるバリ人とかわしていた。声を荒げるでもなく、黙って相手の理不尽な言い分を聞いていた。とりあえず、話だけはうかがったから結論はいずれまた、というような終わらせかたをした。

 相手もそれには同意して、立ち上がって椅子を引き出口にむかって歩きだしたところで、それまでぼくらふたりの間で横になっていたチェリーがむっくりと起きあがるなり、その人物の背後に近づきかれのふくらはぎを「カプッ」と噛みそうに─。
「チェリー!」
 ぼくの声にチェリーはサッと口をひいたので、相手の男はなにごとも気づかずにそのまま出ていった。
 
「お前は、ほんとうにエライ!」
 ぼくは、チェリーの頭をなでてあげたのだった。


 チェリーの死んだ翌日、東京にいる親しい友人からメールをもらった。
「バリに来てよかったことのひとつはチェリーに会えたことでは?」とメールは結ばれていた。



 まったくその通りである。あの犬との出会いは、おおげさに言えばぼくの生にかけがえのない思い出をつけ加えてくれた、と思っている。
 だから、時とともに薄まるであろう記憶がかすれてしまう前に、思い出すままにチェリーのことを折りにふれ書き残しておきたいと思っている。


*タイトルは宮崎駿『千と千尋の神隠し』主題歌「いつも何度でも」より(作詞 覚和歌子)。