温かい気持 2  閉じていく思い出のそのなかに 9

 

 百鬼園先生の『ノラや』を最初に読んだのは、5年くらい前だった。


 今回再読したのは、といっても数か月前だが、この3月に飼い犬のチェリーを喪ったあと、かなしみの感情はおさまらず、ひと月を経てふた月を過ぎても「喪失感」はいつでもぼくのこころを占めているような状態だった。


 5か月経ったいまでも、同様である。


 風がさっと吹いてきて顔をなでていくように、ある瞬間、突然にチェリーを思い出してまぶたが熱くなる。
 幻覚でもいいから、チェリーが庭を走る姿をもういちど目にしてみたい、この手に残るチェリーのからだの温もりをふたたび確かに感じてみたい、とあえない願いを抱く──。
 ひとりでいるときには、しょっちゅう「チェリー、チェリー」と呼びかけている。


 ペットロス症候群というものなのだろうか、これは? と疑いながらネットで検索してみるといちばん最初にヒットしたのがウィキペディアの項目だった。
 症状の説明はともかく、以下の記述に驚いてしまった。


「日本では、内田百けんの『ノラや』(1957年)が、ペットロス症候群という言葉さえなかったころの、同症候群に関する記述として注目される。」


 いったい、誰がどう注目しているのか知らないが、少なくともかつてぼくが読んだかぎり百鬼園の随筆『ノラや』にあらわれる作者の姿は、“ストレス”や“精神疾患”に類する症候群という印象はまったくなかった。


 百鬼園随筆独特のおかしみは、失踪した飼い猫の思い出や、喪失のかなしみ、落涙の場面の行間にすらあった、と記憶していた。


 そこで、あらためて『ノラや』を読んで確かめてみようと、段ボール箱にしまい込んでおいたのを探し出したのが3か月ぐらい前だった。


 百鬼園先生のノラへの追慕が死の直前まで、すなわちノラの失踪から十数年にわたってつづいていたのを、飼い猫や飼い犬を喪った者にはあたりまえのことだ、というわけにはもちろんいかないが、ある種のひとびとにとっては、この「引き延ばされたかなしみ」は起きうるのだ、という事実を今回の再読と、チェリーを喪って以降いろいろと考えてきたなかで実感するようになった。


 これは「症候群」などという病気まがいの名称とは無縁のこころの反応なのである、と。


『ノラや』についても、初めて読んだ時とはまたべつの発見があったということでもある。


 手もとにある『ノラや』は中公文庫版で、巻末に、百鬼園遺作『日没閉門』所収の「ノラや」も載っている。こちらの「ノラや」はノラの失踪からすでに13年も経ってから書かれたもので、ノラ失踪の日付(正しくは二十七日)に間違いがあるのも、作者の老いがここまで達していたゆえである。


「ノラは三月二十九日に出ていつたのだから、三月三十日の朝だつたかも知れない、目がさめて、昨夜ノラが帰つてこなかつたと思つた途端、全然予期しなかつた嗚咽がこみ上げ、忽ち自分の意識しない号泣となり、涙は滂沱として流れ出して枕を濡らした。
 今となつて思ふに、その時ノラは死んだのだらう。遠隔交感(テレパシイ)の現象を信ずるも信じないもない。ノラが私の枕辺にお別れに来た事に間違ひない。」


「遠隔交感」ということばをつかっているのが、じつはとても興味深い。そして、この語彙に類することば、いやことばにまでいたらない心情や体験を、百鬼園先生は『ノラや』の随所で披露している。

 
 そのことを、再読しながらあらたに気づいた。(つづく)