温かい気持 3 閉じていく思い出のそのなかに 10

 

 ノラが一夜明けても姿を現さない、それに気づくと同時に内田百鬼園は朝の布団の中で滂沱の涙を流した。
 そして、その突然の予期せぬ涙に、

「その時ノラは死んだのだらう。遠隔交感(テレパシイ)の現象を信ずるも信じないもない。ノラが私の枕辺にお別れに来た事に間違ひない。」

 と、後年、確信するのである。


 唐突な予期せぬ涙に本人が驚き、それがテレパシーによる「親しいものからの知らせ」と解釈するのに、科学的根拠というものはなさそうだしまた必要でもないだろう。
 こころがそれを確信させる、というだけのことなのだ。
「間違ひない」という百鬼園先生の断定がそれを語っている。


 ぼくにも似たような経験があるので、この一節、「信ずるも信じないもない」、当たり前は当たり前だろうとたたみかける言い切り方に共感し、同時に作者独特のおかしみを覚える。


                   *


 ぼくの場合、知らせてきたのは猫ではなく、わが父であった。
 26年も昔の出来事である。


 末期癌の状態にあった父は肺炎を併発し、一時危篤に陥ったものの辛うじて峠を越えたので、とりあえずぼくは病院のある筑波から東京にもどった。
 まっすぐに仕事の打ち合わせ場所に向かい、それをすませるとひとり暮らしのマンションに帰り、横になるなり眠り込んでしまった。

 目が覚めると同時に金縛りの状態にあるのに気づいた。ところが、それまでなんども経験している金縛り特有の恐怖感がまったくないのを不思議に思った。右側を下にして横になっていたのだが、ぼくの背後にぴったりと接して誰かがいるのも分かった。
 
 その誰か知らない人物が、背後から腕をまわしてぼくをしっかりと抱きしめてきた。ぐいぐいと抱きしめられた。
 ほんとうに、奇妙なくらいに恐怖感は起きなかった。

 身動きのできないぼくは、それでも、からだの下からはみ出していた右手を動かし、まわされてきた腕を握った。


 その瞬間、それが父の腕だと納得したのである。


 病床にあった父は、痩せて衰えていた。見舞ったおりにはそのからだを拭いてあげたり、髭を剃ってあげたりしていた。
 すっぽりと片手で握れてしまうほどに痩せた腕を撫でさすっていたこともある。

 その痩せ細った腕がぼくのからだを抱きしめ、腕はぼくの右手のなかにおさまった。


 波がひくように父の気配は消え、ぼくは起きあがった。
 そして着替えると、町にでた。


 5月の連休に入った、午後4時ごろのH町の人通りの少ない商店街に足を踏み入れたそのとき、唐突にぼくの目から涙があふれだしてきた。
 滂沱の涙──。
 ぼくの感情にかなしみは一切なかった。だが、涙はとまらずにぼくはただ茫然とした。

 
 肺炎を併発して、呼吸器を直接気管に挿入していた父は口をきくことすらできなかった。だから、病床にはいつも鉛筆とメモ用紙を用意していた。
 あるとき、右手をひらひらと振るようにして、なにか言いたいと合図を送ってきた。ぼくは父の手の届くところに用紙をおき、鉛筆を握らせた。

 達筆だったはずの父の字とはとうてい思えない、かすれてよろけた鉛筆の線は、

「ツチヲ ふみたい」

 と読めた。
 ぼくには、返すことばも浮かばなかった。


 商店街の舗道にたちどまったまま、父の書いたそのことばを、ぼくは思い出した。
 父は、ぼくといっしょに歩いているのだ、とそのときに思った。そして、泣いているのは父なのだ、と確信した。

 ツチヲふめた嬉しさに涙を流しつづけているのだ。
 

 その翌日早朝、父の死を知らせる電話でぼくは起こされた。


                 *


  二度目に読む内田百間の『ノラや』で気になったのは、先に書いた「遠隔交感(テレパシイ)」ということばもそうであり、つぎのような場面もつい読み過ごしてしまいそうだが、立ちどまってあらためて読みなおすと不思議な印象をもたらす。

 ノラが姿を消してしまう半年か、それよりも前の話である。

「私は去年の内に二度、春と秋に九州へ行つた。そのどつちの時であつたか、又行きか帰りかもはつきりしないが、多分帰り途だつたと思ふ、糸崎か尾ノ道かの辺りで寝台でよく眠れなくてうとうとしてゐた。夢ではなく、ぼんやりした頭でそんなことを考へたうつつだつたかも知れない。通過駅の駅の本屋の右手に物置か便所かわからないが小さな建物があつて、そこの小さな、半紙判ぐらゐな硝子窓にノラの顔が写つてゐる。」

 
 留守中、ノラになにかあったのではないかと心配する。東京に到着するなり百間は自宅に電話し、ノラに何事もないのを確かめようやく安堵するのである。


 錯覚、といってしまえばそれですむ経験かもしれない。意識のはざまをめぐる、淡い透視のようにぼくには思える。(つづく)