思い残し切符 2 バリで読む「遠野物語』 3

『遠野物語』第二三話は、こういう話だ。


「同じ人の二七日の逮夜(たいや)に、知音の者集まりて、夜更くるまで念仏を唱え立ち帰らんとする時、門口の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろ付(つき)正しく亡くなりし人の通りなりき。これは数多の人見たる故に誰も疑わず。いかなる執着(しゅうじゃく)のありしにや、ついに知る人はなかりしなり。」


 二七日の逮夜とは、亡くなって13日目の夜のこと。
 その夜、親しかった人びとが訪れ故人のために念仏を唱える風習が、この遠野の土地にあるのだろう。亡くなった老女が背中をこちらに向けている姿が、夜更けて帰ろうとする人びとにふたたび目撃されたというのだ。


 通夜の折り、みなが寝静まったあと、娘と孫娘が囲炉裡を前に火を絶やさぬよう、おそらくはぽつねんと座りつづけながら、ときどき新しい炭をくべ灰をかき回す空漠とした時間が過ぎていくそのとき、裏口から足音をたてて室内に入ってきた死者。(第二二話)
 まるで、じぶんが死んだのを忘れてしまったかのように、ちょっと近くまで出かけ用事をすませていま帰ってきたような素振りで家にはいってくる。


 囲炉裡のかたわらを通るとき、脇にあった炭取りに足が触れ、炭取りがころころところがる。
 老女の身なりも、「腰かがみて衣物(きもの)の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫いつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目(しまめ)にも見覚えあり」と生前と変わらない様子だったのである。


 ひとは、こんな経験をどう判断したらいいのだろう?



ワイド版岩波文庫『遠野物語・山の人生』。これは1910(明治43)年の初版本にもとづき、増補版(昭和10年)の「遠野物語拾遺」は含まれていない。


 ぼくが9歳の時、こういうことがあった。


 ある日曜日の午後遅い時間、たぶん4時ごろだったと思う。広場で、といっても東京・下町の建て込んだ家々のあいだに、所有者不明の土地がぽっかりとあいていて、ぼくら子どもたちの格好の遊び場となっていた。
 その空き地で、近所のともだちと「缶けり」をして遊んでいたのだ。

 ぼくはYさんの家の塀のかげに隠れ、空き地のまんなかに置いてある缶カラを蹴りに飛び出すタイミングをねらい、そっと顔を塀柱からつきだして空き地の様子をうかがった。
「オニ」の姿は見えない。
 いまだ! 
 と思うよりも前に、空き地の向こう側の家と家のあいだの露地に同級生のW君がじっとこちらを見ながら立っているのに気づいた。
 薄暗い露地でW君は、たしかにぼくを見ている。

 W君は同級生ではあるけれど住まいはべつの地域にあり、もちろんこの缶けりの遊びに加わっているわけではない。

 かれの姿を確かめてから、ぼくはスッとふたたび塀の陰に身を隠した。


 きのうの土曜、W君とN君の3人で下校の道をいっしょに歩いていたのだが、どういういきさつだったのか分からなかったが、とつぜん、W君とN君が言い合いを始めてしまった。
 なにがあったのだろう? と思っているうちに、気の強いN君がW君を突き飛ばし罵っている。
 W君は、泣きべそをかきながらランドセルを揺らして、走り去っていく。N君は追い討ちをかけるように、道端の石を拾いあげW君にむかって投げた。
 事情のまったくわからないまま、ぼくまで道端の石を拾いW君にむかって投げつけていたのだ。


 だから露地に立っているW君を見たとき、とっさに「仕返しに来た」と思い、身を隠したのだった。

 その日は、ただそれだけで終わり、ぼくも遊びに返ってW君のことはすっかり忘れていた。


 翌月曜の朝、教室にはいってきたS先生は、いつものカミナリ旋風とうって変わった様子で教壇に立ち、静かにこう言った。


「きのうの昼、W君が荒川で溺れて死にました」


                  *


 ぼくは、この体験をほとんどひとに語らなかった。子どもの頃は、不思議なこと、でもこういうこともあるのだ、というふうに思っていただけであった。

 長じて、ときどき思い出すことはあった。


「いかなる執着(しゅうじゃく)のありしにや、ついに知る人はなかりしなり」と思うこともあるし、またW君はどんな「思い残し切符」を持ってぼくを訪ねてきたのだろうと思うこともできる。


 また、べつに、違う考えももっている。