鎮魂の技術 バリで読む『遠野物語』4

『遠野物語』は文学である、と40年ぶりに読み返してはじめて気づいた。

 もちろん、この本が日本の民俗学の誕生を印す重要な起点になったものであるとしても、本質的には文学である。
 簡潔で入念なことばの選択、文体のうつくしさは読んでいて心地よい。佐々木鏡石という遠野出身の青年の語りをベースにしているけれど、遠野の物語はやはり柳田国男によって完成しているのはいまさら言うまでもない。


 ちょうどラフカディオ・ハーンが、妻の語って聞かせてくれた日本の怪談や民話を「小泉八雲の文学」として確立したのに似ている。あるいは、泉鏡花の想像力と物語の構成にも似た方法を感じながら、『遠野物語』を読んでいたのである。


 「文学」だから、とたぶん言ってもよいのだろう、ひとつひとつの話の構成は、聞いたままを文字に置き換えたのではなく、実際にはずいぶん考え抜かれて再構成されているはずだ。

 二二、二三とつづく死んだ老婆が「亡霊」となって登場する話にしても、おそらくは、佐々木鏡石青年の話にはもっと豊富な情報が、しかし夾雑物となりかねない話題もあったろう。
 あるいは後日談のようなものさえ、出ていたのではないかとも推測する。


 たとえば、この老婆と家族との関係であるとか、また、さまよう魂を鎮めるために、寺の坊様に相談するあるいは拝み屋、いわゆるシャーマンにお伺いをたてるなどの手段が、村ではごくふつうに行われていたのではないかという気がするのだ。

 たんなる想像でしかないのだが、なぜそう考えるのか、その理由は、また別の機会に。

 完成した文学的な逸話としては過不足のない、これ以上でもこれ以下であっても崩れてしまうような緊張感は、全編にわたって保たれている。
 

                 *


 数日前に、丁稚のダルビッシュの伯母さんがとつぜん亡くなった話は書いた。そして、昨日20日には、周囲で3人もの方が亡くなっている。


 パソコンの調子が悪いので、いつも修理に来てもらっている青年に電話すると、

「きょうは祖母が亡くなり、明日埋葬するのでそれが終わってから行きます」

 と返事があった。


 仕事が終わり、みんなが帰る準備をしているときに、臨時で来ている近所の女性が、

「親戚の女の子が亡くなり、シガラジャまで帰らなければならないので、24日まで休みをください」

 と言って帰宅していった。


 さらにしばらくして、べつのスタッフからは、

「親類が死んだので、明日はお休みをください」

 と携帯にメールが入ってきた。


 バリはいま死の季節か? と思わず口にしたくなるようなとつぜんの訃報がつぎつぎと耳に飛び込んできた一日だった。


                 *


 バリでは死後3日目に、遺族は特別の供物をもって故人の墓に詣でる。


 儀式の名前は「ナルン / Nelun」といい、供物のなかには「お粥」までふくまれる。死後間もない死者の空腹を、しかも消化のよいお粥を供えて故人の空腹を満たさせる配慮なのか──。

 しかし、この墓参の目的は、故人を生きているひとのようにふるまわせることではない。
 まったく逆なのだ。
 死者が、すでに「死んでしまっている」ことをはっきりと気づかせるためのものなのだそうだ。
 迷わずに、この世界から去っていくようにうながすのが、墓に集まった親族たちの供養なのである。


 そういえば、ここでは死者を前にして泣くことは禁じられている。「禁じられている」といういいかたはきついが、すくなくともよいこととは思われていない。
 故人が後ろ髪をひかれるから、この世に未練を残すからというのが理由だ。

 だからバリの火葬儀礼というのは、ぼくらの抱く死の儀礼についての「常識」が通用しないくらいに華やかで賑々しい。


 さらに死後11日目には「マパトゥウン / Mepetuun」がある。

 霊能者=シャーマンを、遺族たちが供物をもって訪ねる儀式だ。
 故人が死を受け入れているかどうか──ぼくの聞いた言い方では、かれないし彼女の死は「ただしく神に召される時だったのかどうかを確かめる」というものだったが──、そしてなにか言い残したことはないか、いまはどんなふうにしているのか、などと霊能者を通じて故人に尋ね、そしてこたえを得るのである。

 なかには、「ああ、いまはプラ・ダラム(死者の寺院)で、掃除の仕事をしているよ」などという、ちょっと笑ってしまうようなこたえも返ってくるらしい。


 いずれにしても、かれらは死の事実を受け入れ、また死者の霊がこの世との別れを「円滑に」おこなえるような、いくつもの儀礼を通過していく。

 そうした儀礼は、形式にとどまってはいない。


 あえて仏教儀礼との違いをいえば、ひとりの例外もなく彼らバリ人は、死者の声、死者の魂のゆくえについてなんの疑いもなく信じきっている、という一点ではないだろうか。