見えない世界 1 バリで読む『遠野物語』5
母方の親類が岩手県三陸海岸の周辺に散らばるように住んでいたせいで、こどもの頃にはすでに『遠野物語』に登場するいくつかの話に類するものは、伯母たちから聞かされて知っていた。
夏休みのあいだ、宮古や山田それに内陸部ではあるが盛岡など、転々として親戚の家を泊まり歩いていた、その折々に聞かされていたのである。
「海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりという。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。…」(百六話)
山田湾に面した浜辺の一角で網元をしていた親戚では、ぼくの母の姉にあたるその家の主婦がとりわけこのテの話題には事欠かないひとだったから、この一節など、記憶にのこるその伯母の声とかさねるようにして読んだ。
「狐の嫁入り」や「河童」の話に混じって、なかでも「ザシキワラシ」の物語は蜃気楼のような白昼夢を思わせる「ロマン」とは違い、目には見えないのにたしかに存在する「こども」、時にはふっと姿を現すこともあるが、家のどこかにいてぼくらをじっと見ている、その頃は知らなかったことばで言えば「精霊」のような存在として、同じぐらいの年齢であるこどものぼくを不気味に戦(おのの)かせる話だった。
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二三ばかりの童児なり。おりおり人に姿を見することあり。…. この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり。」(一七話)
いまならば、ぜひとも「ザシキワラシ」をひとりとは言わず、ふたりでも三人でもお招きもうしあげて、篤(あつ)くおもてなししたいと思うが、当時は、「見えない存在がある」というそのことだけで、戦く気持がまさっていた。
だから、どの親戚の家にいても、ほかに誰もいない広い部屋にぽつんとひとりでいる時など、ふと、部屋の片隅に廊下の突きあたりや階段の踊り場などに見えないはずの「こども」の姿が横切ったりはしないかと、恐る恐る目をやったこともある。
これは杞憂であった。
いま思い返せば、どの親戚にしてもどう見積もったところで「富貴自在」の家でもなんでもなかったのだから。
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スカラ sekala / ニスカラ nisekala はバリ語で、「目に見える世界 / 目には見えない世界」を意味する。
バリはこのふたつの世界によって成り立っている。
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ある朝、工房でのこと、紙のストックやできあがった照明具などの置いてある一段高くなったフロア、いちおうショールーム風につかっているフロアのタイル床に水がこぼれているのに気づいた。
水は、ストックの紙の一部をわずかに濡らしてはいたが、破損というほどではない。
それよりも、なぜここに水がこぼれているのか、と不思議に思った。
雨漏りではない。
ヤモリなどの小動物の排泄物ではない。
澄んだ水は、床の上にお盆くらいの大きさに溜まっている。撒かれたものでも、上から漏れたのでもないのは、飛沫がまったくないところから明らかだ。
ぼくは、誰の仕業だろうと思いながら雑巾を手にしゃがんでその水たまりを拭いた。そのとき、目の先に、あらたな水の溜まりが見えた。そちらにも、あちらにもという具合に。
ちょうど水銀がこぼれて散ったように、大小の水たまりが点々と床の上にあった。
「水が置かれている」
と、ひとりのスタッフが言った。
たしかに、そっと床の上に注ぐように「置いた」様子に見える。
集まってきたスタッフたちは口々に「これは変だ」と言う。
「ドゥクン(呪医 / 呪術師)に聞いたほうがいいと思う」
と、誰ともなく言いだす。
奇妙な、日常的な感覚からすれば違和感のある現象に出遭ったとき、かれらの習慣ではドゥクンに、いわばお伺いをたてるのが常である。
かれらの気がすむならそうするのがいいだろうと、ぼくはふたりのスタッフをドゥクンのもとにやった。
しかし、内心ではまだ「誰の仕業だろう」と考えていた。
いたずらや嫌がらせだとしても、床に水を垂らすなどという無意味なことをするヤツがいるだろうか。悪ふざけで紙を濡らすのが目的ならば、バケツの水でザバッとかけるほうが小気味いい。
ぼくなら、そうする。
仕事をしながらそんなふうに思っていた。
ふたたびショールームに入り、壁にかけているパネル作品になにげなく目をやったとき、
「こんなことが…」
と、こころのなかで呟いていた。
鳥肌が立った。
墨流しという方法で、その頃、いくつかの作品をつくりパネルにしていた。オープンエアのスタジオなので、ホコリや土蜂やヤモリの被害を受けないよう、パネルにしたものはすべてビニールで包装するようにしている。
そのとき目にしたパネル作品も同様に、ビニールで包んで壁にかけていたのだが、ビニールの内側にわずかに水が溜まっているのだった。
ぼくは近寄って、その部分のビニールに触れてみた。
外側は少しも濡れていない。
だが、ビニールの内側に水があり、紙には水が沁みているのがわかる。水が沁みはじめてから、それほどの時間がたっていないのもわかる。
10分? あるいは5分か。
これはたしかに普通ではない。どう考えても、このビニールとパネルの間にある水のありさまは尋常ではあり得ない──。
そこにとつぜん電話が鳴った。