見えない世界 2 バリで読む『遠野物語』6


 電話の相手はさっきドゥクンのもとにやったスタッフだった。すこし興奮した早口で話す。

「プンフニのせいだそうです」


 プンフニ / punghuni とは、一般名詞では「住民」を表すのだが、いま起きているような文脈のなかでは「精霊」を意味している。
 ある土地にもともと棲んでいる、あるいはどこからかやってきた精霊である。 


 工房にもどってきたふたりのスタッフの話を詳しく聞くと、ドゥクンによれば「このプンフニは、なにか悪さをしようとしているのではない」という。
 日々のお供え物 / チャナンに不足しているものがあり、プンフニはただそれをわれわれに気づかせるため、工房の床に水を置いたのだというのがドゥクンの説明だった。



家の入り口に置かれたお供え / チャナン。包装されたアメがのっている。


 なにが足りなかったのか? 

「タペとウリを供えるように」

 というのがドゥクンの宣託だ。


「タペ」は米を醗酵させたもので、搾ればブラムという甘い酒になる。「ウリ」は白い碁石をふたまわりくらい大きくしたような餅。軽く火にあぶってかすかに焦げがある。

 この土地に棲む精霊は、これらを求めているというのだ。
 ならば、さっそく明日からそれらも用意してチャナンに添えて差しあげよう、ということになった。



                *


 近所にある木彫工房での話。

 仕事をおえた職人さんが帰ろうと門をでかかると、誰かが足首を握った。「なんだろう」と後ろを振り返ったが誰もいない。
 奇妙だな、と感じながらもその日はまっすぐに帰った。


 翌日も同じことがあり、不思議に思って経営者に話し、やはりドゥクンに相談にでかけた。
 その工房では、最近ジャワから大きな伐採木を購入し、工房の隅に置いていたのだそうだが、その樹に宿っていた精霊が行き場を失い「棲み処」を求めているのだという。

 この経営者はさっそく工房の一角に「お社」をつくり、精霊が安らかにそこに棲めるよう小さな儀礼をとりおこなった。


 もちろんその後、日々のお供えを欠かすことはない。



水辺にもお供えものが。


                 *


「不思議」ということを気にもかけなければ、たぶん、それは何事もなかったかのように日常性のなかに埋もれ、過ぎていく時間のなかに消えていくものなのかもしれない。
 水が床にこぼれていた。
 ただそれだけのことではないか、となんのためらいもなく通り過ぎるのも無理な話ではない。

 薄暗がりのなかで、足首をつかまれた。
 錯覚だろう──それですむ話でもある。


 バリでは、しかし、それは無頓着や錯覚だけですむ話ではなくなる。ぼくらの住む日常世界と精霊たちの棲む見えない世界とがクロスする一瞬でもあるのだから。


                *


 先日、ウブッドのある喫茶店で南山大学の吉田竹也助教授のトークショーがあった。ご専攻は文化人類学で、『バリ宗教と人類学 解釈学的認識の冒険』という著書もある。

 かれの研究しているバリ宗教は、こういう言いかたが許されるなら、公式のバリヒンドゥーであり、民俗的なニュアンスの強いアニミズム的ヒンドゥーではない。すくなくとも、その著書からはそううかがえる。


 トークの冒頭で、かれがまだ学生時代にバリに留学していた頃の話があった。若き人類学者の卵は、当時、バリのお供えものに興味をいだきその調査を始めたという。
 しかし、その複雑さにおそれをなしてわずか数か月で調査を断念した。

 確かめられなかったが、たぶん吉田さんの調査は寺院祭礼や民間儀礼などの大がかりで華やかなお供えものを対象にしていたのではないだろうか。



車のフロントボードにもチャナンがちゃんと。


「公式的な儀礼でのお供えものと、日々のチャナンなどのお供えものとの間にはなにか違いはありますか?」

 ぼくは質問した。

「連続性はあると思います」

 と、吉田さんの返事。


「連続性」はたしかにあるかもしれない。しかし、ぼくは「違い」を問題にしたかった。


 つづけて質問をかさねようとしたときに、どうやらそれは「場違い」だったらしく司会者により話の方向が変えられてしまった。


 だから、いまここに書くのは、吉田さんにさらに突っ込んで質問したかった内容でもあるのだが、あえて違いを強調すれば二種類のお供えものの「方向性」であり、その方向性はそのままひとびとの意識の違いも示しているのではないか、そのことを問題にしたかったのである。

 寺院祭礼でのお供えものが神への捧げものとして「垂直的」な方向性をもつのに対して、日々のお供えものは、精霊たちへの、善き精霊であれ悪しき精霊であれ、まるでぼくら人間のひな形のように存在している精霊たちへ「平行的」な方向性をもったものとして捧げられているのではないか、と。



レストランのレジにだって、お供えものは欠かせないのだ。


                *


 目には見えない存在としての神、姿を容易には見せない精霊たち──物理的に不可視の存在としてバリの空間に普(あまね)く御座(おわ)すものたちへ、バリの人びとは日ごと欠かすことなく供物を奉じる。


 余談ではあるが、Bali と書けばインドネシア諸島のちいさな島の名前だが、bali と綴ればバリ語では「供物」を意味する。
 
 語源的な由縁でもある。