『考えるヒント』へ  バリで読む『遠野物語』7


『遠野物語』を読んでいる最中に、奇妙な記憶の混乱にとまどった。


 こういう話にさしかかったときである。

 ある猟師が山中で白い鹿に出会う。白鹿は神の化身と信じられ、一撃にして斃(たお)さなければ祟りにあう。猟師はじぶんの名誉にかけてこれを射とうと決意し引き金をひくのだが、手応えはあるのに白鹿はびくとも動かない。
 

「あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。」

 数十年も山で猟師として生きてきて、石と鹿を見誤るはずもない。「全く魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思いたりきという。」


 たったこれだけの逸話なのだが、原文の一字一句がありありと記憶から甦るのにじぶんで驚いていた。
 はじめに書いたように、ぼくが『遠野物語』を読むのは40年ぶりなのである。覚えているはずもない箇所が、まるで昨日読んだばかりの一節ともいえるような鮮明さで脳裏に浮かぶ。



「南部曲がり家」は盛岡市や遠野地方の伝統的なL字型建築。母屋と馬屋が接しているのだそうだ。


「デジャ・ヴュ(既視感)」ならぬ「既読感」? 


 脳はときどき妙なとりちがえを起こす。

「いま起きているこのことは夢でみたことがある」とか「初めて見るはずの風景なのに、以前、見たことがある」というように。

「正夢」や「予知夢」があるのは否定できないだろうが、経験的にいえば、既視感というのはたいがいは脳が、いま体験している出来ごとを一瞬のうちに「アーカイブしてしまう」結果、過去の記憶としてとらえてしまうのだろう、と思っている。

 脳の記録装置が亢進して「現在」を文字どおり一瞬のうちに「過去のもろもろの事実のひとつ」として収納してしまい、まさにいま体験しているにもかかわらず「過去に起きた出来ごと」と認識してしまうとりちがえ、とぼくは素人解釈している。


 おもしろいけれども不思議でもなんでもない。


 上に引いた『遠野物語』の一節が鮮やかに記憶として甦るのを、はじめは既視感の一種かなとは思ったが、鮮明度からいえば、そういう類いのものではないと確信。


 こんな経験ははじめてのことなので気になり、このエピソードの書かれたページの余白に付箋を貼っておいた。


『遠野物語』を読み終え、つづけて『山の人生』を読みだしてまもなく、あるエピソードにさしかかるやまったく同じことが再び起きた。

 ページの端に新しい付箋をまた貼る。



『山の人生』を読むのはこんかいが初めてである。「記憶が甦る」というのはあり得ない。

 気になってしかたないので本を閉じ、このふたつの逸話が同時に引用されている本を最近読んだことがあるかどうか、本棚にむかって背表紙を眺めまわした。

 そもそも、今年にはいってから読んだ本というのはさほど多くはない。本棚に並んでいるもののうち、これと、あれとコレという具合に指さして数えられるくらいのものだ。


 まとめてズラリと並べているバリ関係の本では、『バリ 観光人類学のレッスン』(山下晋司著)が、「民話のふるさと 岩手県遠野の観光」の章で当然ながら『遠野物語』にふれてはいるが、エピソードの引用はいっさいない。

 消去法でいくと、ぼくの手もとにある本のなかには『遠野物語』の一節を鮮明な記憶としてとどめるようなものはひとつとしてないのだった。


 こうなってくると本を読みつづけるどころではなくなり、落ち着きもなく部屋をうろうろとしながら、段ボールにつめこんだ本をとりだしてみたり、友人から借りた何冊もの本にまで思いを馳せ半日を過ごしたあげく、とうとう思いあたるものが浮かんだ。


 小林秀雄の『考えるヒント』である。


 きわめて怪しげな記憶をたどれば、この本を読んだのは今年のはじめだったような、ないような…。


 再び本を借り、ページを繰っているうちにやはり見つかった。
「信ずることと知ること」── 1974(昭和49)年に行われた講演をもとにした評論だった。

 もういちど読みなおしているうちに、触発され思うところが多々あった。

 小林秀雄が論ずるところの『遠野物語』、というよりも柳田国男とその「方法論」についての考察にしばらく耳をかたむけてみたい。


 いずれ、バリの「現代化」ともクロスする話になるような気がするから。