バリにもどる飛行機のなかで

 

 バリにもどる飛行機のなかでは、池澤夏樹の短編集『きみのためのバラ』を読んでいた。


 なかでも「都市生活」の一編に、東京で過ごしたわずかな日々の余韻をあらためて感じ、機内でくりかえし二度読むことになった。

 余韻はけっして心地よいものではなかったけれども、かといって不快というわけでもない。強いていえば、外側の世界とじぶんとのズレのようなものをしばしば感じたということ。
 その「感じ」が乾いた皮膚のうえをちいさな虫がはうように、この小説を読んでいるあいだに甦ってきた。



品川駅07時51分発の成田エクスプレスがホームに進入してくる。


 冒頭の一節。

 主人公は7時50分の便だと思って空港へ着いたのに、じつはそれは彼の勘違いで3時30分の便のチケットを手にしていたのをチェックインの時に気づかされる。


「『ご予約を変更なさいましたか?』と聞かれて彼はうろたえた。
 『いえ、しなかったと思うけれど.....』
 『あの、これは三時半の便のご予約ですが』
 ゴヨヤクという言葉は耳障りだと思いながらカウンター越しに航空券を見ると、なるほどそうなっている。」


 こうして「ご予約」をカタカナで表記されると、確かにその「耳障り」の加減がよく伝わってくる。耳にはいってくる音韻がクリアにあらわされているからだろう。話す人間の意図とは別に、音そのものが聞いている側に違和感をひきおこすこともあるのだ。
 印刷された文字を目にするのとは別の印象を話しことばは生みだす。
 主人公は、そんな些細なことばのやりとりにひっかかるものを感じた ── そのような感受性がぼくらのなかにあり、ありふれた日常的な場面でその感受性がかすかな摩擦に接したようすが、この短い会話のなかに描写されている。



午前11時発のガルーダ便に乗り“機上の人”となる。


 結局その日のフライトの空席待ちは空振りに終わり、翌日の一便に変更して空港近くのホテルに宿泊することになった彼は、ホテル近くのレストランに入る。

 牡蠣をオーダーしようとした彼は、注文をとりにきたウェイトレスに、


「『牡蠣、大きい?』と聞く。
 『オイスターですか?』
 『そう』
 わざわざ英語にしなくてもいいのに。」


 誰もがこんな経験をもっているはずだ。あまりにもありふれた光景にたぶん多くのひとは、いちいちこころのなかで「わざわざ英語にしなくてもいいのに」と呟く間もなくやり過ごしていくのだろう。
 そのやりとりにはなんの過ちもないし、コミュニケーションを途切れさせるような障害もない。
 ただ、微妙な摩擦や違和感がことばのやりとりの最中にふっと生まれる。

 

そして雲のうえをゆく。


 ぼくの一時帰国はいつでも短い滞在だから、そしてバリにいる時間のほうがはるかに長いから、そうしたかすかな違和感をよけいに味わうのかなとつねづね思っていたが、「都市生活」の描写はそれがけっして特殊なものでもなく、ごくありふれた、しかしちいさな棘のように会話の流れにつきまとっているようすを伝えてくれた。


 起伏のすくない静かな物語ではあるが、ことばをめぐる「問題」を考えさせる好編だった。

                    *



バリ島南部のウルワトゥ。機内アナウンスでは「晴天」と告げられていたが、島のうえには雲がかぶさっていた。


 バリにもどる前日、都内のある大きな病院の心療内科を初めて訪ねた。


 数年前からふたたび出はじめた鬱の傾向は、この1年ほぼ一定して変わらず、雨季も最盛期になるとなにも手につかなくなるくらいに悪化していた。倦んだ気分が厚い雲のようにこころを占めている。

 雨季を迎えたバリにもどる前に、せめて薬だけでも「調達」しておきたいと考えたのである。


 受診前に4,5ページにわたる問診票をわたされ、ひとつひとつの質問に「はい」と「いいえ」と印刷されたこたえに丸をつけていった。

 適当に丸をつけたものもあるが、「死にたいとよく思いますか」という質問には戸惑ってしばらく手を止めた。


「はい」「いいえ」と書かれた文字のあいだのわずか2cmほどの隙間を、いったり来たりしているような感じだ。


 死にたいとか生きていたいということばでいまのじぶんの状態を考えることがほとんどない。しかしこの質問が、たとえばストレートに「自殺したいとよく思いますか」とあれば、「いいえ」に丸をつけるだろう。
 もしさほどためらうことなく丸を「はい」につけるとすれば、質問は「死んでもいいとよく思いますか」であるはずだ。


 はい、もうここらへんで死んだとしても未練はありません、という意味で丸をつけると思う。

 

デンパサール空港出口。この出口が「楽園への入口」になるひとは多い。


 診察室には女医さんが座っていた。
 さっき提出した問診票を机のうえに置き、目の前のパソコンにときどき「データ」を打ちこむ作業を彼女はくりかえす。
 ざっとぼく自身の口から状況を説明すると、すかさず診断をくだした。


「鬱病ですね」


 そう、それはじぶんでもだいたい分かっている。だから、バリにもどりいちばんひどくなる時のために薬がほしいのである。そのために、今日ここへ来て1時間半も待たされた後、この診察室にこうやって座っているのだ。


「薬は処方できません」


 は? 


 投薬後2週間は薬の効果を確かめなければならず、もし薬があわなければ変えていかなければならない。そうした経過を観察できないあなたには薬は処方できない──非の打ちどころのない「論理」である。

 では、どうしたらいいのか。

 
「バリのお医者さんにかかってください」

 .......。

 

空港を出ると東の空に月がかかっている。昨夜東京で眺めた月よりもすこしだけ膨らんでいた。


 心療内科の診察室でかわされたそんな会話を機内で思い返しながら、そろそろ姿を見せはじめたバリの島影を窓からみつめていた。