昇るひと眠るひと

 


 昨日はプリルキサン美術館へ出かけ、そのあとスターバックスに寄ってから徒歩でぶらぶらとプリアタンのタガスまで歩いた。


 ギアニャールに車で買い物に出ているスタッフとどこかで落ち合うようにしていたが、けっきょく1時間あまり歩いてタガスに着いたところで拾われた。


 途中、2日にあったプレボン(葬儀)の火葬場前を通ったのでなかを覗いてみた。




 あの巨大な火葬塔もみごとな牛の火葬棺(ルンブゥ)もことごとく焼きつくされて灰と炭に、そして魂は天上へ召された。

 数か月費やして制作したアートともいえるあの構築物を、たった数時間で灰にしてしまうこの潔さ──死の儀礼のクライマックスは同時にアートパフォーマンスでもある。はじめてバリの火葬儀礼を目撃したときからこの演劇性に魅せられてきた。

 死は哀しみではなく魂の解放であることを、芸術的に昇華したパフォーマンスとして見せる火葬儀礼はバリ文化の粋だ、といまだに思う。


 
 そういえばあの墓はどうなっただろう、と突然思い出しマス村の墓地を訪ねた。


 ‘96年ごろは、自転車に乗りウブッド周辺をあちこち探索していた。あるとき迷い込むようにふらりと入ったのがマス村の墓地だった。

 涼しい木陰をつくるベンガル菩提樹の下でひとやすみしてから、墓標を見てまわった。そのなかに沖縄の亀甲墓(きっこうばか)を彷彿させるような、こんもりと盛り土した大きな墓が目に入った。
 近づいてみると、石に漢字を刻んだ墓碑銘があり中国人の墓であるとわかった。


 

慣習村マス墓地とバリ語で書かれている。


 その墓はいまでもあるのだろうか、と墓地に足を踏み入れたのである。


 野犬が数頭、警戒して吠えかかってきた。草むらの中に生まれて間もない子犬たちがかたまっている。気をつけなければ、と犬の様子を横目で見ながら記憶の場所へと近づいたが、あとかたもなく、ただ雑草が生い茂るだけであった。そばには、新しい墓がいくつか横たわっている。


 当時の手帳に書き留めておいた墓碑銘はこうあった。


 卒民國十八年季秋之月□□
 顯妣 (言に益)敬淑曾門謝氏之佳城
 孝男 成□ 孝女 □□□ (人に工)立石


 民国18年は西暦1929年にあたる。世界恐慌の始まった年だ。この年の秋に亡くなったひと。名前からすると女性のようである。「謝」は一族の名だろう。「佳城」は墓。息子や娘さんたちが、この墓を建立した経緯も見える。



 マス村出身のスタッフにこの墓の話をした。


「ああ、あれはずいぶん前に取り払われましたよ」


 やはり、そうだったのか。しかし、遺骨はどうしたのかを尋ねる気にはならなかった。


 戦争の始まる前、このちいさな村にも中国人が居住していた、そして亡くなったあとは家族の手により手あつく葬られ、いまは土のなかに眠っている──初めてあの亀甲墓のような盛り土を目にしたときの印象のままでいたいと思ったからだ。