『苦役列車』を読んで思い出したこと

 

 先月発表されたふたりの芥川賞受賞者の対照的な違いが話題になっていたらしい。


 かたや由緒ある家柄の出身者であり、もう一方は強姦強盗の罪で服役した父親をもつ作家である。本人自身も逮捕歴2回の強者(つわもの)だ。
 記者会見のときに見せた態度や応答には、いつもの芥川賞受賞のニュースとはひと味違う関心を呼んだらしい。


「らしい」「らしい」と頼りない言いかたしかできないのは、ネットでそんな話をちらっと見る程度で実際のようすがわからないからだ。


「出自」を話題にするというのはあまり好ましいことではない、というぐらいの一般常識はいまのマスコミだってもっているはずだけれど、こんかいは少し事情が違っている。
 由緒ある家柄の出のひとは、たぶん、じぶんの出自について書きまくられるのにさほどの抵抗感もないだろうからそれは置いておいて、そうではないほう、由緒もへったくれもない、それどころか身内も本人も犯罪者だなんていう人物の場合、ふつうはそれをおおやけに話題にするのは人権侵害につながる。


 受賞作家西村賢太の場合は、その少し事情が違うという理由から「出自」や特異な経歴が話題になったのだろう。
 受賞作である私小説『苦役列車』に、作者のあまりふつうとも言えなさそうな生い立ちや若い頃の生活が描かれ、その「特異性」こそがこの小説のバックグラウンドとして活かされているからだ。

 ありのままに、というよりは暴きだすように描かれた私小説であると認められたうえで、現実の作家の生い立ちと私生活はこの通りに相違ないと、だれもが疑わない。

 だからうがった見方をすると、本人自身が告白しているのだからいいじゃないかとばかり、ふだんはタブー視されているはずの身内の犯罪歴などが公然と活字になってしまう。


 そういうありかたにひっかかるものを感じるけれど、覚悟のうえで作家は書きマスコミやネット上の報道や噂に抗っているわけでもないのだから、ある意味では共同歩調をとっているのかもしれない。


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 この小説はおもしろかった。


 主人公の北町貫太の生まれ育った江戸川区──東京低地(下町)の「空気」が濃厚に流れているからだ。
 貫太が江戸川区のどの町の出身なのかははっきりとは書かれていない。
「江戸川区のはずれ、ほぼ浦安よりの町」と曖昧なのだが、たぶん、葛西あたりだろうと見当はつく。

 その町でちいさな運送会社を経営していた父親の禍々(まがまが)しいふるまいにしても、短気で激情型の母親の姿、長じて貫太が世間や他者にむかう屈折した心情やことばにしても、その後、貫太が安アパートを借りて住んでいた場所が飯田橋であれどこであれ、この小説に満ちている匂い、体臭といってもいいくらいの強烈な匂いとしての下町の「空気」がぼくには伝わってくる。


 そんな匂いを嗅ぎとってしまうのは、そこがぼくの育った故郷でもあるからだろう。

 
 常盤新平の短編集に『冬ごもり 東京平井物語』(‘96年刊)がある。江戸川区平井を舞台に、著者らしき人物が語る下町の人間模様を描いた作品だ。
 この本が出版されてまもなく、「懐かしがるだろうと思って」と友人が手紙を添えわざわざバリに送ってくれた。

 たしかに、駅前からすこしはずれた所にある喫茶店とそこを溜まり場にするひとびとの雰囲気や商店街のようす、荒川の土手の風景描写に、ああ、こんなだったナと思い出すことはあったものの、友人の並外れた親切に報いることができず「懐かしさ」はついに起きなかったのを覚えている。


 なぜか? 


 ひとつには「下町」という類型的なイメージの中に登場人物たちがうまく納めこまれているせいだろうと思う。造型されたひとりひとりの人物は、かならずしもその土地特有の風土、非合理な言いかたをすれば「地霊」とは無縁で、場所がどこであっても成り立ってしまうようなエピソードだったからのような気がする──15年も前にいちどだけ読んだものを詳しく思い出すのも難しいから滅多なことは言えないが、いずれにしても人間像が淡く、ぼくの知る平井に住んでいたひとびととは違和感があった。


『苦役列車』の貫太の両親が、酒も飲めないタチなのにまるで酔いの勢いを借りたかのような凄まじさで、ささいなことに怒りを暴発する、そんなタイプのひとびとの姿こそあの低地のくすんだ風景にふさわしく思える。


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 じぶんの育った土地に住む人びとが子どもも含め他の地域の住人とはずいぶん違うと気づいたのは、まだぼくが10歳前後の頃、初めて都内の他の地域の子どもらと交わったときだ。

 ジャンボリー大会に学校代表で派遣され長瀞の施設で何日か共同生活したときや、私立中学受験組といっしょに(唯一、ぼくだけが私立を受験する環境にはいなかったのだが)アチーブメント・テストを受けるために東京家政学院のある三番町へ日曜ごとに通った頃、そこに集まる山の手の子どもらがふだんぼくの接しているクラスメートや近所の遊び仲間らとは似ても似つかないくらいに違っていたのに、カルチュアショックをうけた。


 かれらは、あまりにも「さわやか」なのだ。


 後年になって、そのカルチュアショックについて考えてみたことがあるが、きっとかれらは「ことば」によって育まれてきたのだろうという結論に達した。
 親や教師の身勝手な感情の起伏にふりまわされずに、子どもらしい過ちについてもおそらくことばを重ねた論理によって納得するまで説かれ、暴力によって強制的に服せられるということはなかったのだろう、と。


 美化してとらえているかもしれないが、少なくとも彼らにはこんな経験はなかったのではないだろうか。


 あれは学年が変わった新学期、担任の教師も変わりあらたに教壇に立ったのはH先生という中年の女性だった。
 初めて向きあうのだから当然、笑顔をつくりながら話しはじめたのは近いうちに父兄会を開くのであとで先生から詳しく知らせましょう、といった内容だった。


「せんせい、皆さんのお母さんお父さんの顔を見たいワ」


 そのとき、いちばん前列、通路を挟んでぼくの隣に座っていた女の子Oちゃんが元気よく叫んだ。


「親の写真もってくればいい!」


 ナルホド〜とぼくが感心するかしないかの刹那、H先生は目を吊り上げピシャッとOちゃんのお下げの頭をひっぱたき、烈火の如く怒りだしてしまったのだ。
 H先生のとつぜんの変わりように、ぼくはかたまってしまった。ほかの子どもらも同じように反応したから、教室はしーんと静まりかえった。
 先生の張りあげるどなり声だけがぼくらの頭上に響いたのだった。

 いったいどんな理由で瞬時に怒りを爆発させたのだろう、たった10歳の子どもにむかって?

 手をあげて怒ったあとのH先生の説教は覚えていないが、あの形相は忘れない。


 地元の小学校、中学校を通じて特徴的だったのは教師たちは総じて生徒が荒れる前にすでに荒れていた。


 中学の同級生K君は母子家庭に育ち、母親は駅前の入り組んだ露地にならんだ飲み屋の一軒を営んでいたが、同じ学校の数学教師がその店で飲んでいるうちに暴れだし、とうとう店の入口の引き戸をぶち壊してしまった──という話が、翌日には当のK君からぼくらにも伝わり、赤ら顔のその口からいつも酒臭い息を吐いている数学教師の「夜の顔」に納得がいったものだった。

 この酒乱の二日酔い常習者も、教室でよく荒れた教師のひとりだった。


 想像できるだろうか、30代、40代の男が10代半ばにも満たない子どもを殴る蹴る引きずり回すという教室の光景を。怒りを直接的な暴力に噴きだす習慣が、かれらにはあまりにも日常的だった。いったい、どんな種類のエネルギーを内に抱えこんでいたのだろう。

 かれらのエネルギーが暴発するたびに、ぼくらはあたふたとしていた。


 だから、そんな教師たちの息子のひとりがバラバラ殺人事件の犯人として逮捕された新聞記事を目にしたとき、残忍とも哀れとも感じながらかれの殺人行為にいたる情念の源が、犯人の父親、生徒をやみくもに殴打するひとりの社会科教師の姿にかさなっていったのは、不合理とは思いながらも仕方のないことだった。


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 あの頃の、荒れるひとたちの姿には、時代の影も濃厚だった。


 戦後15年を過ぎても、場所によっては空襲時の散弾の空薬莢をぼくらこどもが拾い集めることができたほど戦後復興から(さらにいえばその後の高度経済成長からも)遅れた地域で、‘60年前後の空気は、ひょっとして敗戦後の「焼跡闇市」的な無秩序が尾を引くように残っていたのかもしれない。


 ある雨の降る昼日中、おもての道路でとつぜん怒鳴り声が聞こえた。


 家の中にいたぼくは家族といっしょに窓辺に寄って、ガラス戸の隙間から外のようすをのぞいて見た。ふたりの男が取っ組み合いのケンカをしている。びしょ濡れになり、互いに相手につかみかかりながら聞きとれない奇声を発している。
 取っ組み合いをしているのにからだの動きが緩慢で、よろよろとしながらまるで互いに寄りかかっているようにも見える。


「ヒロポンだな。Gさんとこの若い衆だ」


 父がそういった。

 Gさんとは近くに住むテキ屋の一家だ。


 そのうち、ひとりの男が崩れて路上にころがった。もうひとりの男はふらつきながら腰を曲げると地面にあった漬物石ほどの大きさの石を拾いあげた。
 男はその石を両腕で高々と頭上にもちあげ、横たわっている男の頭めがけて一気に投げ下ろしたのだ。

 その瞬間、ぼくの横にいた姉が悲鳴をあげた。


 ぼくの記憶はそこで消えている。まさか気絶したわけでもないのだろうが、姉の叫びが記憶のフィルムを断つ鋏の役割をはたしたように、その後のいっさいをぼくは覚えていない。

 5歳ごろのことだった。


 同じ時期かせいぜい1、2年後にもテキ屋一家の若い衆が暴れたのはやはりヒロポン中毒によるものだ。広場で遊んでいたぼくらにむかってわめき声をあげ、鉈(なた)を振りあげながら襲いかかってきた若い男がいた。
 その表情までは記憶していないが、子どもの目線からすれば身の丈の大きな痩せた男が右手に鉈をかかげとつぜん目の前に出現したとき、ぼくらは広場でどんな遊びをしていたのかこれも記憶からは剥落している。


 子どもらは悲鳴をあげ、てんでに散って走った。幸い、この中毒者が子どもらに襲いかかる前にすぐ近くの自転車工場の従業員たちがかれを目撃しており、太くて長いチェーンを振り回しながら男を追走してきていたので、鉈が子どもを傷つける前に男はとりおさえられたのだった。


 記憶をたぐりよせれば限りなく蔓延する暴力の場面のかけらども──そのなかには闇のなかに見た強姦未遂の穢(けが)れた断片もあるけれど、もういいだろう。


 下町というのは、といえば語弊がありそうだ、下町をくまなく歩いたわけではないが一部の農村地帯をのぞけばいずこも似たり寄ったりだったとは思うのだが、江戸川区平井のぼくの育った周辺にはこんなふうなひとびとがゴロゴロいたのだった。


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 人間とは火山のように唐突に噴火するものだと、幼い頃にぼくの出会ったひとびとは身をもって示した。
 わずかなきっかけさえあれば瞬時に噴きだすマグマのようなエネルギーを内部にかかえ日常生活を送っている。その凶々しい威力こそ東京低地の「地霊」がもたらしたものなのだ、と。

 
 東京の山の手地域からやってきた子どもらと交わったときに感じたあの「さわやかさ」は決してこういう風土からは生まれないだろう、というのもやはり後日あらためて感じたことだが、翳(かげ)りのないあの子どもらに「マグマをかかえた人間」観など無縁だったにちがいない。


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『苦役列車』のなかで貫太が悪態をつくシーンがある。情けなく、滑稽な啖呵でもある。


 中学卒業以来、港湾荷役の日雇いとして投げやりな日々をおくっていた貫太は、アルバイトであたらしく入ってきた専門学校の学生、同じ歳の日下部と知り合う。
 九州出身のこのさわやかな好青年に対しめずらしく貫太の心情に他者へ傾斜する思いが芽生え、いままで抱いたことさえなかった「友情」まで感じはじめる。
 ある日、日下部とかれの恋人の美奈子を野球観戦に誘うのは、貫太の魂胆に美奈子の女ともだちを紹介してほしいという下心があったからだが、球場をでて居酒屋で酒を飲みかわしているうちに日下部と美奈子が嬉々として語る、貫太のふだんの暮らしぶりにはほど遠い演劇談に歪んだ恨みがあたまをもたげ、かれは深まる酔いのはてに悪態をつく。


「出たぜ。田舎者は本当に、ムヤミと世田谷に住もうとする習性があるようだが、それは一体なぜだい? おめえらは、あの辺が都会暮らしの基本ステイタスぐれえに思ってるのか? それもおめえらが好む芋臭せえニューアカ、サブカル志向の一つの特徴なのか? そんな考えが、てめえらが田舎者の証だってことに気がつかねえのかい? それで何か新しいことでもやってるつもりなのか? 何が、下北、だよ。だからぼくら生粋の江戸っ子は、あの辺を白眼視して絶対に住もうとは思わないんだけどね」


 じっさい、地方から上京する学生たちが猫も杓子も世田谷周辺に偏ってひとり暮らしをはじめるのは‘60年代にはすでに当たり前のようになっていた(ちなみに、この作品の時代背景は‘86年である)。

 貫太ならずとも、いったいどんな理由がそこにあるのか学生時代のぼくにも不思議だったのだが「田舎者の証」と言いきる貫太の屈折した心情も理解できる。


 たぶん、江戸から東京に変わった時期、薩長をはじめとするあたらしい支配層となった「田舎侍」たちが旧武家屋敷のあった山の手に移り住んだ、その「上京」のかたちが現代になっても引き継がれているのではないか、といまは推測している。

 明治のはじめに踏みあとをつけられたそのルートが、時代がくだるほどにパターン化していったのではないだろうか。


 そうだとすれば貫太の悪態「田舎者の証」は、歴史的背景(!)に支えられているともいえる。

 
 しかし貫太が「ぼくら生粋の江戸っ子は...」と意気がってみせる段になると、さっきは味方していてくれた歴史的背景は即座に手のひらを返すだろう。

「生粋の江戸川区っ子」ではあっても決して貫太は江戸っ子ではない。そもそもだれも江戸川区を「江戸」に属していた地域とは見なしていない。
 こんな啖呵をきれるのは、隅田川から東ではせいぜい本所、深川あたりまでだ。

 それを承知で意気がって見せるところが滑稽なのだ。現に貫太の目の前に並んでいるふたりのカップルが地方出身者だからこそ、そんなうすっぺらな強がりが言えるのだが、貫太にしたところで誰がどこに住んでいようとホントのところは気にするはずもない。そんなつまらない与太ばなしでしか意気がれないのは、日下部や美奈子の話題についていけないじぶんが惨めで情けないだけなのである。


 じぶんこそが、じつは「文化的田舎者」であるのを自覚している惨めさなのだ。


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「下町にやってくると、あらためて東京は一つではないという思いがこみあげてくる。沖積層がつくる低地と洪積世にできた台地状の土地と、東京は二つの違う土質でできた土地、二つの違う地形、二つの違う精神文化のせめぎあいとして、発達をとげてきた。その意味で、下町の存在を抜きにして、東京を語ることなどは、まったく不可能なのである。」(中沢新一『アースダイバー』)


 武蔵野台地と下総台地に挟まれた沖積平野は地質年代的にも浅いだけではなく、その地盤も浅くもろい。
 足下の、砂と泥でできた地面がもともと軟弱なのだ。


 子どもの手でもつくれる程度の深さ20 cm ほどの穴を掘ると、まわりの土からジワジワと水が滲みだしそのうちに穴は水でいっぱいになる。おもしろいくらいに簡単に「池」になってしまう。
 そんな遊びをしているとおとなから止められたものだが、あとから考えるとその理由も分かる気がする。

 堅固であるべきはずの大地が、じつは水に浮かぶ泥舟でしかないというのを目の当たりにする怖さ。
 
 沖積層の水脈が涸れれば地盤沈下まで起こす──いずれにしたところで、じつに危うい地盤のうえにひとびとの暮らしが成り立っている。


 指をひろげた手のかたちの武蔵野台地(山の手)の堅固さもなく、地に足のついた市民意識も希薄なまま、ときには生活のゆとりさえ覚束ない暮らしが軟弱地盤のうえで営まれている。
 ぼくの、そして貫太の育った下町とはそんなものだった。


『アースダイバー』の著者のいう「二つの精神文化」とは、山の手文化と下町文化を指しているけれど、その下町文化と呼称されるのは「江戸」を基体にした伝統をいうのであって、農村と工場と淋しい商店街をゆきかう庶民たちの混沌を指すわけではない。


 貫太がじぶんのありようを総体として「苦役」とみなすのは、だれもの人生がそうであるという意味での苦役ではない。
 貫太を生み育てた沖積層の底に悶えるマグマのような情念を、じぶんの内側に抱え込んだまま生きつづけなければならない「宿命」をいっているのだ。


 それは、この作家が負っている生でもあるのだろう。