マデ・アルタナの巣立ち
この3月半ばにアメリカへ旅立った初代丁稚のマデから今朝メールが届いた。
Dear Bapak で始まる短い便りだが、念願だった客船クルーの仕事につくまでの長い道のりを思えば、とにもかくにも彼はいま、あたらしい人生のスタート地点に立ったのだという実感がわいてきた。
「ごめんなさい、ようやく連絡する時間がとれました。すでに2度の航海を経験しました。
仕事はびっしりと詰まっていて、たまたま、いま、30分だけ外出できる時間がとれたのです。
いままでずっとサポートしていただいたことに心から感謝しています。ぼくがこの仕事に耐えぬき、成果が得られるよう、どうぞお祈りください。
敬具
マデ 」
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彼が初めてやってきた11年前の7月の、その日のことはよく覚えている。
在住日本人の知り合いのH君の奥さんがカラガッサム出身で、その彼女の従兄弟にあたるマデをぼくのスタッフにと推薦され、その日、H君と一緒にやって来たのだった。
痩せて上背のあるからだつき、一見してやや険のある面(おもて)にはまだ19歳だった彼の緊張や恥ずかしさや、そして屈折した自尊心(これはあとになって知ることになるのだが)やらがこもごもに交差していた。
さっそく仕事場に案内し、おおまかに説明しながら、一方でH君と雑談しているわずかな暇にふとマデの姿を追うと、彼は大きなタライの前にしゃがみこみ煮込んだあとのバナナの繊維を洗っているのだった。
とりあえず、じぶんにいまできるのはこれだとばかりに、命じられもしないのにさっさと仕事を始めていたのだ。
H君からも事前にマデの話はすこし聞いていた。
奥さんの親戚筋の若い連中がよく彼らの家に泊まりがけで遊びにくるのだが、朝、誰よりも早く起き、言われもしないのに箒をもって庭を掃くのはマデだけだという話などを、そのときに思い出した。
この最初の日に感じた利発な青年という印象は、その後、スタッフとして出入りのあった多くの若ものたちに対してはほとんどもたなかった。
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よく泣く子だった。
その涙のみなもとは悲しさというよりも悔しさにあったのだと思う。
ある日、高校三年生の彼の弟から電話があった。
話が終わり、受話器をおくなり彼は天井にむかって顔をあげ、そのままボロボロと大粒の涙を流しむせびだした。
家になにか不幸があったのかとこちらも不安になり「どうした?」と尋ねた。
「卒業旅行のお金がないから、弟が旅行に参加できない」
目から涙をこぼしながらそう言う。じぶんも卒業旅行には行けなかった。それは、もういい、でも弟には同じ思いをさせたくない。
彼はしゃくりあげながらそう言った。
H君からは、マデの実家が極貧のなかにあるとは聞いていた。たぶん、村でいちばん貧しいのではないだろうか、と。家と呼ぶにはあまりにも粗末な、道ばたの掘っ立て小屋に家族5人で暮らしている、と。
その話を聞いたときに、ぼくはじぶんの育った東京・下町の、小学校のクラスメートKさんを思い出した。貧乏人の子だくさんを地でいくような一家で、長女Kさんをあたまに、ゾロゾロと弟妹が並びさらに母親の乳をいちばん幼い子どもが貪っている。いつ見ても、長女のKさんの周りには弟妹たちがかたまっていた。
彼らはドブ川の上に住んでいた。
土の上ではない。ドブ川に板を渡しそこに柱を立てトタンやいろいろなサイズの板きれで周囲を囲い、戸口には布がぶら下がっていた。
当時の子どもたちが他人の貧しさをネタにからかうようなシーンはなかったように記憶しているが、貧しさは、べつに他人にあげつらわれなくともおのずとわが身に突き刺さる棘のようなものだ。
気丈だったKさんがときどき見せるなにか諦めたような表情は、子どもごころにも理解できた。
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じぶんの家の貧しさを、マデはいちども語ったことはない。
ただ、子どもの頃から弟とよく貧富の差の不公平については話していたとか、彼が高校生の頃に好きだった女の子がいたけれど「身分が違うから初めから諦めていた」といった話はしていた。
ある朝、アグン山の背後の朝焼けを眺めていたとき、庭の掃除をしていたマデが話しかけてきた。
「アグン山のむこうの空があの色になると、家を出て学校に行ったんですよ」
出身地カラガッサムにあるマデの村はアグン山の膝元にある。そこから、カラガッサム市まで乗り合いバスを乗り継いで高校にかよっていた、その当時のことを彼は言っているのだ。
ほかの同級生のように、バイクで通学するなら30分ですむ距離だろう。
朝焼けの見える時間には、彼はすでに学校に出発していたというわけだ。
「空が時計だったんだね」
そうこたえると彼は笑っていた。
他愛ない話だが、アグン山の朝焼けを見るたびに思い出す。
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働きだして1年も過ぎた頃から、彼はすこしずつ打ち解けていったように思う。それまでは、やや扱いにくい口の重い青年だった。
どんな話の流れだったかすっかり忘れたが、あるとき、彼はじぶんの母親が盲目であると明かした。
小学生の頃、家でラジオを聴いていると県立病院で無料の網膜回復手術があるという公報があった。彼はすぐに母親にそれを伝え、母親の手をひいてベモに乗って病院まで連れていった。
母親の順番がきて医者が検眼したのちに、こう言ったのだ。
「眼球がないからもう手術はできないよ...」
母親の幼い頃に、バリで疱瘡が猛威をふるったらしい。それに罹患したのだが当時はまともな病院もなく、ドゥクンと呼ばれる伝統医の薬草治療をうけたのだ。その治療がどうも怪しく、薬草が目に浸入し爛れた結果、失明にいたった。
小学校の低学年だった彼女は、失明後、学校には行けず、早い時期から独立した生計を立てなければならなかったらしい。
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一般的に、というのはおもにツーリストの目をとおして眺めるバリ人は、温かいまなざしのもちぬし達だろうが、ぼくの知る彼らは決してそんなものではない。
と、誤解されそうな言いかたをするのは、たんにひとつの社会とそこに暮らす人びとを美化してとらえてはいないというだけの話なのだが、ハンディを背負った人びとにはなお生きるのが困難な場所ではないかと感じている。
医療や社会保障といったバックアップが充実しているなどとは、とても思えない。
だから、彼の母親が経てきた時間に思いをめぐらせると、とうてい想像力の追いつかない困難さが横たわっていただろうと、それだけは確実にいえる。
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マデが、ぼくのもとでの仕事を辞めて客船クルーの仕事に就きたいと告白したとき、もちろんぼくにとっては痛手ではあるけれど、彼が望むような方向に彼の人生を切り替えるのは、当然、彼の選択肢であってそれを阻害する気はなかった。
じっくりと彼の話を聞きながら、かえって彼の判断力の適切さに感心したくらいだ。だから、最後に、できるだけの応援はするから頑張るようにと言ってからつけくわえたのは、きみへの応援ではあるけれど、じつは気持ちのうえでは、きみを育てた盲目のお母さんへのエールでもあるんだよというひとことだった。
彼がその意味を理解したかどうかは分からないが、ぼくからのサポートというのはそういうことなのであった。
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メールの返事はまだ書いていない。
近況を伝えると同時に、こんな一節をインドネシア語に訳して贈ることばにしようかと思っている。
「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれにまっすぐ立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。」(池澤夏樹『スティル・ライフ』)
いま理解できなくとも、彼ならきっと、いつかこのことばの意味を探れると思うのだ。