もの食うぼくら バビ・グリンの巻 2

 バビ・グリンは「男の料理」である。もっと正確に言えば「男たちの料理」だ。豚一頭を扱うのだから、ひとりでできるわけもない。体力が必要だから、という理由をおいて、なぜ男たちの料理なのかとあらためて考えてみる。
 まず、この料理は儀礼につきものの特別のもので、「きょうは、バビ・グリンが食いたいからいっちょう豚でもしめるかぁ〜」といった筋合いのものではない。儀礼や寺院祭礼(オダラン)の際の供物として奉納され、そののちにひとの口に入れられるご馳走なのである。「食う」のは二義的な行為なわけである。これが本来のかたち。
 ちなみに、この最初の「年忘れバビ・グリン大会」に招待したバリニーズのひとりが「バリの人間は、こういうことはしない」と苦虫つぶしたような表情でぼくに言った。要するに、食う楽しみを目的にバビ・グリンを料理したりはしない、とチクリと進言したわけだ。
 儀礼や祭礼といえば、女性たちは果物や花や菓子をあしらったお供え物づくりに何日にもわたって忙殺されているわけで、さらに体力を消耗するような豚の丸焼きなどという「荒事」に関わる余裕すらないだろう。
 ここらへんは、きっちりと男性と女性の務めが分かれている。要するに、この役割分担がバビ・グリンを男たちの料理たらしめているのである。
 ウチのスタッフや手伝いにきてくれたひとたちも、とくに相談する様子もなく、男と女の担当は初めからはっきり分かれていた。この「とくに相談する様子もなく」、あらかじめ決められているかのごとくそれぞれにじぶんの持ち場を受け持っていく様子は、見ていて不思議でもあるが、共同作業に慣れ親しんでいるかれらの自然なしぐさの現れなのかもしれない。
 豚の屠殺について、ぼくはスタッフにひとつだけ注文した。ウチではやらないでくれ、と。飼っている5匹(当時)の犬を興奮させないためである。犬(に限ったものでもないが)は、人間の「暴力」に対して非常に敏感な動物で、その暴力がじぶんに向かっていると誤解して過剰に反応するものもあれば、逆に怯えてしまうものもでてくるからだ。ブヒーッ、ブヒーッと泣き叫ぶ豚の出現自体が、かれらをパニックに陥れかねないし、ましてや断末魔の叫びをあげて息絶える場面を目撃するなど、かれらの本能をどんな具合に刺激してしまうかわからない。少なくとも、いまだそういう経験のないウチの犬たちにとっては。


 かくして、屠殺され体毛を剃られ、内臓をぬいてきれいに洗われた二頭の豚が小型トラックで運ばれてきた。
 いきなり衝撃的なシーンが登場するが、豚を回転させながら焙(あぶ)るために、心棒を豚のからだに突き刺しているところである。生後2.5か月、体重15kgのオス。
『フランドン農学校の豚』(宮沢賢治)の主人公、ヨークシャー種の豚くんは、撲殺される前に、農学校校長のつきだした「死亡承諾書」に無理やり捺印させられたが、バリで生まれ育ったこの豚くんの場合、それはない。
 ただ、花火のような白い尖光が目の前に散乱するのを最後に見たのは、たぶん物語の中の豚くんと同じだったに違いない。合掌。
 数人ずつがひとつのチームを組んで、いよいよ料理の準備がはじまった。話し声、かけ声、笑い声が響いて、まるで祭りの準備でもしているような賑やかさにわが工房はつつまれた。
 豚くん、ありがとね。
(つづく)