Nusa Lembongan 断想 非観光的スポット案内


 いまの季節ならツーリストで賑わっていることもないだろうと思いつき、レンボンガン島を初めて訪ねてみた。


 サヌール海岸から高速艇で30分、バドゥン海峡の激しい潮流をタテにヨコにと揺られてレンボンガン島の岸辺に到着した。埠頭もなにもない所で、船を降りると生ぬるい海水に膝までつかりながら砂浜まで歩いて渡った。

 小さな島だから、半日もあればバイクで全島を走り巡れるのではないかと思い、レンタルしたバイクに乗り、これ以上は進めないだろうと思えるほど舗装がぼろぼろに崩れた個所にさしかかれば引き返したりしながら、マングローブの森を眺めたり、建設中のあたらしいホテルの数々を横目にして走ってみた。


 むかし訪ねた沖縄の離島に雰囲気が似ていると感じたのは、黙りこくって静かにたたずむ家並みのせいなのか、海の気がからだをつつむせいなのか、いずれにしてもこぢんまりとして人影もまばらな土地柄にひさしぶりに「旅人」の気分を味わった。

 あまりにも無意味といえば無意味な名前をつけられた Dream Beach にたどりついて、唯一のレストランで遅い昼食をとった。
 けっきょく、この浜辺で日の暮れかかるまで、ベンチに横たわり潮風を浴びながら昼寝をしていた。



 それにしても、こまごまと金のかかる場所だ──レストラン前の長椅子を借りるのにも別料金を請求され、泊まった宿で Wi-Fi を接続するのも、プールで泳ぐのにもいちいちそれ相当の金を支払わされる...。
 Wi-Fi にいたっては、使いはじめて10分ほどで接続が切れ、どうしたのかと宿のスタッフに尋ねると、故障したので明日バリ本島から業者が修理にやってくるまで使えないと、いかにも離島の暮らしを物語るこたえが返ってきた。


 翌朝、宿の前にある浜辺に停泊したアウトリガーの小舟から荷をおろすひとびとの姿を目にした。建築材の鉄筋やセメント袋を頭に載せて運んでいた。

 そして、目を転じるとバリ島の聖峰アグン山がその頂きを雲の上からのぞかせている。


 雨季が目前にやってきたと思った。


Tanah Lot 夕景 非観光的スポット案内


 タナ・ロットに来たのは14年ぶりだ。


 高校時代のクラスメートが、家族とともに初めてバリにやって来たときに案内して以来のことだ。
 6年前、三度目のバリ来訪を前にして友人は急逝した。彼の遺骨をバリの海に散骨してから5年経った。



 狭い浜辺は相変わらず観光客で賑わっていた。

 皆、夕陽の沈むのを眺めるためにやって来たひとたちである。インドネシア国内の観光客だけではなく、さまざまな国のひとびとがここを訪れる。

 だから、インドネシア語、英語、ラテン系の言語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語が耳元を飛び交い、活気あふれる “世界市場” に身をおいているような気分になった。


 夕陽の沈む情景とは無関係の音環境がここにはある。





 

ボゴール熱帯植物園 2  非観光的スポット案内

 
 

 むかし、歳時記かなにかを読んでいるとき「犬ふぐり」のことばを見つけて吹きだしてしまったことがある。
 しかし、その17文字の句は、決して犬のきん◯まを詠んだものではないというのは、近くにいた友人が笑いこけているアホに教えさとしたおかげで、そのとき初めて、これが春の季語をあらわす植物名であって、きん◯まとはなんの関係もないという常識を知った。

 とはいっても、瑠璃色のちいさな花が実をむすぶと、色こそ違え、それはまさしく犬のきん◯まとウリふたつであり「犬ふぐり」の名称がじつに的を射ていて、先人の観察眼の鋭さに驚いたものだった。


 犬ふぐりはそれでよろしい。


 ところが、蘭の英名「オーキッド Orchid / Orchis」 が、「ギリシア語の睾丸を意味する “ορχις (orchis)” が語源であるが、これはランの塊茎(バルブ)が睾丸に似ていることに由来する」とウィキペディアで知ったときにはまったく腑に落ちなかった。

 そもそも蘭の「塊茎」とはなんぞや? と、庭にあるいくつもの蘭をこまかくチェックしたけれど、そんな塊りは見つけられなかった。
 それなりの年数を経れば、ニンゲンの睾丸に似た塊りが形成されるのだろうか、それともギリシアの蘭はもともと睾丸っぽい茎をつけているのだろうかと、あらたに湧いた疑問はいまだ疑問のままなのである。

 だいたい、そんな妙な塊りに注目せず、花の容姿から命名してくれていればこんな疑問も抱かずにすんだのにと思いつつ、和英辞典をめくっていると「睾丸炎」は orchitis とあり、やはり 蘭の名称とは深い関係があるのだなと了解したが、蘭を “睾丸” と呼ぶセンスにはいまだに納得のいかないものが残る。


 ボゴール植物園の Orchid House で撮った写真の一部を下に並べてみた。

 フォトショップがあまりうまく使いこなせていないので、胡蝶蘭が無惨にもひっつぶれてしまいよく見えないが、もっともポピュラーで誰でも知っている種類だから、手直しせずにアップすることにした。

 ところで、この Orchid House を訪ねるときには、蚊よけスプレーが必携。カメラをかまえている間、腕やふくらはぎ、首など蚊に刺されまくってしまった。



ボゴール熱帯植物園 1 非観光的スポット案内

 


 初めてボゴールを訪ねたのは '93年だったと思う。

 その頃はまだ日本にいたから、この都市を訪ねたのは「熱帯植物園」を見学するというただひとつの目的しかなかった。今回の西ジャワの旅では、ボゴールに住む、親しくしている学生と落ち合い一緒にバティックの産地、そして彼の生地でもあるチレボンまで足をのばすための中継地となった。
 


ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港から高速バスに乗り1時間半、ボゴール市内に入るといきなり渋滞がはじまった。グリーンの塗装をほどこした小型バスは「アンコット / Angkot...Angkutan Kota の略称」でバリではベモと呼ばれる乗り合いと同じ。バリの場合、自家用車やバイクが急激に増えたせいか最近ではベモが走っているのを見る機会は減ったが、ボゴールでは市民の足としてまだまだ健在で、ご覧のような密集度──ふたつの地域の個人所得の差もあらわしているのだろうか。


 

 国内旅行そのものが久しぶりのことで、ボゴールに限らず今回最後に訪ねたスラバヤの街の、バリの日常風景とはまったく異なる景観に好奇心をそそられるのとはまた別に、じぶんの身をおく空間として馴染むのは都市や街としての成熟度がバリのそれより遥かに進んでいるからなのだろうと思う。
 もちろん、バリも含めこれらの都市が抱えている渋滞や大気汚染、ゴミ放置などの機能マヒや環境汚染はこの国の社会問題ではあるけれど、街並み景観としての魅力はあなどれない。
 
 その魅力も、じつはオランダ植民地時代に形成された都市計画や残存するコロニアルスタイルの建築物から醸しだされているわけだが、実質的な植民地支配が遅れていたバリの場合、あえてバリ伝統の建築物を維持保存するという植民政府の政策がいまの姿をとどめた──要するに、植民地としての収益率の低い地域は改造されずに旧来の景観を保つことができたのだ。

 歴史はフクザツで皮肉だ。



ボゴール植物園のすぐそばにあるホテルの窓からの眺め。



夕暮れになるとこのありさま...あの照明を撃て! と思わず口走る。


 ボゴールは中継地にしかすぎなかったが、ジャカルタに向かう日の朝、2時間ばかり余裕があったので結局、目の前にある植物園を訪ねた。80ヘクタールもある園内をくまなく歩くのは無理だから、蘭ハウスだけを目的に入った。

 植物園としての歴史のはじまりは1817年となっているが、それ以前、ナポレオン戦争の勝敗の結果、ジャワ島が一時的に英国支配におかれた1812〜1816年、かのラッフルズ総督がこの地に居住しイギリス風庭園をつくったという前史がある。この植物園の「目玉」でもあるラフレシアの語源も、この総督の名に由来しているそうだ。

 蘭印総督府 / イスタナ・ボゴールはこの植物園に隣接し、広大な敷地に当時のままの建物が残り、庭園には、どういう理由でそこにいるのか尋ねる機会もなかったが、奈良公園の鹿の数をあきらかに上まわるほどの鹿の群れが優雅に “散策” していた。



4か所ある入園口の正門。'93年に来たときには果たしてこの入口を通ったのかどうか記憶が不確かで、建物に見覚えがあるといえばいえるし、どうも初めてのような気もするしとめっきり怪しくなってきたじぶんの記憶力にため息つきながら、右手階段をのぼりチケットを買った。
入園料は9500ルピアと、いまのレートではたった80円弱で、ウブッドにある手入れも行き届かないまま寂れたボタニカル・ガーデンの入園料5万ルピア(415円)と比べると、ここが外国人ツーリスト向けというよりは、市民に開放された施設なのだと納得した。



園内に入り、蘭ハウスをめざし歩いているうちに爽やかな歌声が聞こえてきた。どうやら女性歌手のヴィデオ撮りらしい。朝の空気をふるわせる澄んだ声に歩みをゆるめたが、仕事の邪魔をしてはいけないと近づけなかった。



彼女が腰をおろしているのはメンガリスの板根で、この常緑大高木は高さ70〜80メートルにもなるという。熱帯の大木は1枚の写真におさまりきらないといわれるが、板根の部分ですら、ひょっとしておさまりきらないのではないか?


 朝の散歩をかねて植物園を訪ね蘭ハウスを目的に歩いていたのだが、やはり熱帯高木の存在感の威容さに圧倒されしばしば立ち止まっては、空をめざして伸びていく樹形に見惚れた。

 確かに、1枚の写真の枠内にはおさまらない。
 そういうわけで、目線の高さの範囲でいくつかの樹木にカメラをむけた。






 最後の2枚は、インドネシアではカポックと呼ばれるアオイ科の高木で綿を産出する。高さは60〜70メートルにも達するらしい。
 このカポックであるが、わが家の庭にも1本あり、いわく説明しがたい事情から8 年ほど前に物置小屋のすぐそばで芽生え、あれよあれよというまに生長しつづけ毎年綿の実をつけるようになった。最初の年には、じぶんの人生で、みずから綿を収穫する体験など想像もしていなかったので、大喜びで綿摘みをした。

 ところが、翌年、さらに高く伸びたカポックから綿を収穫するのはほぼ不可能とわかった。
 手が届かないのである。
 広がった枝いっぱいに綿の実がぶら下がり、やがて熟して果皮がはじけると綿はいっせいに風に飛ばされ、牡丹雪でも降ったように地面を覆い、屋根に積もり、細かい綿毛は口や鼻に入ってくるようになったのである...。

 木を矯(た)めるといえば聞こえはいいが、以降、つねに樹高が 2,3メートルにとどまるよう伸びれば伐り、また伸びれば伐りをくりかえしている。

 が、根だけはどんどん大きくなって広がりいまや物置小屋の床下にまで侵入しているのだから、植物園でこの巨大な板根の育ち具合を見て仰天したのは、いつかきっとウチの物置小屋は傾くにちがいないと確信したからなのだ。

 それにしても、板根の表皮に広がるこの剣菱の剣先のような突起物には、いったいどんな「存在理由」があるのだろうと首をかしげた。


 そういえば、蘭ハウスに行く途中にあるオオオニバスの池で見た「コインと耳かき綿棒」も存在理由の不明なシロモノであったな。


 


 
 

House of Sampoerna 非観光的スポット案内

 


 スラバヤ市内のはずれに「グダン・ガラム」と並ぶ大手煙草メーカー「サンプルナ」の博物館がある。創業者は Liem Seeng Tee という移民中国人で、丁字入りの煙草を自宅でつくり小商いを始めたのが1913年のことだというから、1世紀の歴史を歩んできたわけである。


博物館正面。1932年、煙草製造工場として買い上げられるまでは映画館だったそうで、だからチャップリンやモンローが玄関脇にひかえているのだろう。


博物館の入館券(無料)も当時のチケットを模している。


館内に入るなり甘い香りにつつまれた。ここかしこに見える「王」の文字が気になり館員に尋ねると、「煙草王」をめざした創業者の意図がロゴとして表わされたのだという。


タバコの葉。


そして甘い香りの源、丁字の入った籠。ジャワ島、マドゥラ島、バリ島の各地から収穫された丁字は、それぞれに個性の異なる芳香をはなつ。手にとり、実を砕き鼻に近づけくらべてみたら、ジャワ産がいちばん刺激がつよく、バリ産はまろやかな香りがした。


入館した時間が午後も遅かったので、展示物を見るのはあとまわしにして地階にある工場の、4時には終業してしまう作業光景をまず見るよう、館員にうながされた。こう言ってはナンだが、こんなにてきぱきと手を動かしているインドネシア人を目撃するのは初めてのことで、作業工程がどうのというより、彼女らの素早い手の動きに圧倒された。1時間に平均325本の煙草を紙巻きしていくのだと、パンフレットに書いてあった。



世の風潮にながされずに煙草を吸うひとびと。


ここにも。


さらに、ここにも。



館内の装飾はレトロに満ちている。


レトロなポスターたち。


レトロなタイル


凸版印刷機


併設のレトロカフェでひとやすみ──しているあいだじゅう、写真には写っていないが(写さなかったが)、じつは、ほかの客たちのけたたましい笑い声やバカでかい話し声を耳にし、あげくは紙ヒコーキを飛ばして遊んでいる親子づれを目にしていたのだった...。

マデ・アルタナの巣立ち 

 

 この3月半ばにアメリカへ旅立った初代丁稚のマデから今朝メールが届いた。


 Dear Bapak で始まる短い便りだが、念願だった客船クルーの仕事につくまでの長い道のりを思えば、とにもかくにも彼はいま、あたらしい人生のスタート地点に立ったのだという実感がわいてきた。


 「ごめんなさい、ようやく連絡する時間がとれました。すでに2度の航海を経験しました。
  仕事はびっしりと詰まっていて、たまたま、いま、30分だけ外出できる時間がとれたのです。

  いままでずっとサポートしていただいたことに心から感謝しています。ぼくがこの仕事に耐えぬき、成果が得られるよう、どうぞお祈りください。

                             敬具
                              マデ  」


                     *


 彼が初めてやってきた11年前の7月の、その日のことはよく覚えている。


 在住日本人の知り合いのH君の奥さんがカラガッサム出身で、その彼女の従兄弟にあたるマデをぼくのスタッフにと推薦され、その日、H君と一緒にやって来たのだった。
 痩せて上背のあるからだつき、一見してやや険のある面(おもて)にはまだ19歳だった彼の緊張や恥ずかしさや、そして屈折した自尊心(これはあとになって知ることになるのだが)やらがこもごもに交差していた。


 さっそく仕事場に案内し、おおまかに説明しながら、一方でH君と雑談しているわずかな暇にふとマデの姿を追うと、彼は大きなタライの前にしゃがみこみ煮込んだあとのバナナの繊維を洗っているのだった。
 とりあえず、じぶんにいまできるのはこれだとばかりに、命じられもしないのにさっさと仕事を始めていたのだ。


 H君からも事前にマデの話はすこし聞いていた。


 奥さんの親戚筋の若い連中がよく彼らの家に泊まりがけで遊びにくるのだが、朝、誰よりも早く起き、言われもしないのに箒をもって庭を掃くのはマデだけだという話などを、そのときに思い出した。


 この最初の日に感じた利発な青年という印象は、その後、スタッフとして出入りのあった多くの若ものたちに対してはほとんどもたなかった。


                     *


 よく泣く子だった。


 その涙のみなもとは悲しさというよりも悔しさにあったのだと思う。


 ある日、高校三年生の彼の弟から電話があった。
 話が終わり、受話器をおくなり彼は天井にむかって顔をあげ、そのままボロボロと大粒の涙を流しむせびだした。

 家になにか不幸があったのかとこちらも不安になり「どうした?」と尋ねた。


「卒業旅行のお金がないから、弟が旅行に参加できない」


 目から涙をこぼしながらそう言う。じぶんも卒業旅行には行けなかった。それは、もういい、でも弟には同じ思いをさせたくない。
 彼はしゃくりあげながらそう言った。


 H君からは、マデの実家が極貧のなかにあるとは聞いていた。たぶん、村でいちばん貧しいのではないだろうか、と。家と呼ぶにはあまりにも粗末な、道ばたの掘っ立て小屋に家族5人で暮らしている、と。



 その話を聞いたときに、ぼくはじぶんの育った東京・下町の、小学校のクラスメートKさんを思い出した。貧乏人の子だくさんを地でいくような一家で、長女Kさんをあたまに、ゾロゾロと弟妹が並びさらに母親の乳をいちばん幼い子どもが貪っている。いつ見ても、長女のKさんの周りには弟妹たちがかたまっていた。

 彼らはドブ川の上に住んでいた。

 土の上ではない。ドブ川に板を渡しそこに柱を立てトタンやいろいろなサイズの板きれで周囲を囲い、戸口には布がぶら下がっていた。

 当時の子どもたちが他人の貧しさをネタにからかうようなシーンはなかったように記憶しているが、貧しさは、べつに他人にあげつらわれなくともおのずとわが身に突き刺さる棘のようなものだ。

 気丈だったKさんがときどき見せるなにか諦めたような表情は、子どもごころにも理解できた。


                     *


 じぶんの家の貧しさを、マデはいちども語ったことはない。

 ただ、子どもの頃から弟とよく貧富の差の不公平については話していたとか、彼が高校生の頃に好きだった女の子がいたけれど「身分が違うから初めから諦めていた」といった話はしていた。

 ある朝、アグン山の背後の朝焼けを眺めていたとき、庭の掃除をしていたマデが話しかけてきた。

「アグン山のむこうの空があの色になると、家を出て学校に行ったんですよ」



 出身地カラガッサムにあるマデの村はアグン山の膝元にある。そこから、カラガッサム市まで乗り合いバスを乗り継いで高校にかよっていた、その当時のことを彼は言っているのだ。
 ほかの同級生のように、バイクで通学するなら30分ですむ距離だろう。

 朝焼けの見える時間には、彼はすでに学校に出発していたというわけだ。


「空が時計だったんだね」


 そうこたえると彼は笑っていた。
 他愛ない話だが、アグン山の朝焼けを見るたびに思い出す。


                      *


 働きだして1年も過ぎた頃から、彼はすこしずつ打ち解けていったように思う。それまでは、やや扱いにくい口の重い青年だった。


 どんな話の流れだったかすっかり忘れたが、あるとき、彼はじぶんの母親が盲目であると明かした。


 小学生の頃、家でラジオを聴いていると県立病院で無料の網膜回復手術があるという公報があった。彼はすぐに母親にそれを伝え、母親の手をひいてベモに乗って病院まで連れていった。

 母親の順番がきて医者が検眼したのちに、こう言ったのだ。


「眼球がないからもう手術はできないよ...」


 母親の幼い頃に、バリで疱瘡が猛威をふるったらしい。それに罹患したのだが当時はまともな病院もなく、ドゥクンと呼ばれる伝統医の薬草治療をうけたのだ。その治療がどうも怪しく、薬草が目に浸入し爛れた結果、失明にいたった。
 小学校の低学年だった彼女は、失明後、学校には行けず、早い時期から独立した生計を立てなければならなかったらしい。


                     *

 一般的に、というのはおもにツーリストの目をとおして眺めるバリ人は、温かいまなざしのもちぬし達だろうが、ぼくの知る彼らは決してそんなものではない。
 と、誤解されそうな言いかたをするのは、たんにひとつの社会とそこに暮らす人びとを美化してとらえてはいないというだけの話なのだが、ハンディを背負った人びとにはなお生きるのが困難な場所ではないかと感じている。
 医療や社会保障といったバックアップが充実しているなどとは、とても思えない。


 だから、彼の母親が経てきた時間に思いをめぐらせると、とうてい想像力の追いつかない困難さが横たわっていただろうと、それだけは確実にいえる。


                      *


 マデが、ぼくのもとでの仕事を辞めて客船クルーの仕事に就きたいと告白したとき、もちろんぼくにとっては痛手ではあるけれど、彼が望むような方向に彼の人生を切り替えるのは、当然、彼の選択肢であってそれを阻害する気はなかった。


 じっくりと彼の話を聞きながら、かえって彼の判断力の適切さに感心したくらいだ。だから、最後に、できるだけの応援はするから頑張るようにと言ってからつけくわえたのは、きみへの応援ではあるけれど、じつは気持ちのうえでは、きみを育てた盲目のお母さんへのエールでもあるんだよというひとことだった。

 彼がその意味を理解したかどうかは分からないが、ぼくからのサポートというのはそういうことなのであった。


                      *

 メールの返事はまだ書いていない。


 近況を伝えると同時に、こんな一節をインドネシア語に訳して贈ることばにしようかと思っている。


「この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれにまっすぐ立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。」(池澤夏樹『スティル・ライフ』)


 いま理解できなくとも、彼ならきっと、いつかこのことばの意味を探れると思うのだ。

こういうことをしてもいいのかどうか分からないけど

 


 去年の5月以来3度目になる、スカイプをつかったテレビ生出演があった。
 日本時間5時20分の本番よりも2時間以上前からスタンバイして、リハーサルや音声チェックなどの調整があったのだが、今回は話す内容が多く、しかも本番30分前に最終台本が決まるという素人にはきわどい展開だったので、パソコン周辺には「カンニングペーパー」をペタペタと貼りつけておいた。



 放送内容は先日のニュピの話──ニュピ当日だけではなく、その前日のオゴオゴパレードやそれ以前に始まるオゴオゴの制作、また浄化儀礼ムラスティについてなど多岐にわたっていた。
 その番組内容をここにそっくりトレースしてしまおうというのだから、著作権なんかに触れるかもしれないなと思い「こういうことをしてもいいのかどうか分からないけど」というタイトルになったわけ。


 ま、気にせずいこう!


                       *


さあ、続いて「ハローアジア」です。きょうはこちら!インドネシア、バリ島からです。
成瀬潔さんに伝えていただきます。

駒村)こんにちは!よろしくお願いします。
成瀬)よろしくお願いします。

駒村)さあ、きょうはバリ島の祭礼について伝えていだけるんですよね。
成瀬)はい、先週23日に行われた「ニュピ」についてお伝えします。
   「ニュピ」はヒンドゥー教のサカ暦という暦の、新年最初の日にあたります。
   ニュアンスはかなり違いますが、日本で言う元旦ですね。
   この日は、「火をおこしてはならない」「労働をしてはならない」「外出しない」などの規則を守らなければなりません。

駒村)仕事も外出もできないということは、みなさんどうされているんですか?
成瀬)まず、外には一切人影がありません。今ご覧になっている写真が、普段の町の様子です。
   結構、車の往来がありますよね。



 ところが、ニュピの日にはこうなります。



駒村)あ、ホントだ誰もいませんね!
   みなさん、家の中で過ごされているんですか?
成瀬)そうです。
   私の友人の中には、瞑想したり、あるいは断食したりして、静かに一日を過ごすという人もいます。

駒村)静かに自分と向き合う日ということなんですね。
   観光客はどうしているんですか?
成瀬)観光客も外出禁止は同じなので、ホテルの中で一日過ごすことになります。

駒村)は〜。成瀬さんも、お家で過ごされているんですよね。
成瀬)はい。ニュピでは、この日ならではの体験ができます。
   まず、朝、目が覚めると一切音がしないんです。鳥の声や風の音が身近に感じられ、普段、いかに人工的な機械音の中にさらされているかがよく分かります。
   不思議と、体も軽く感じられますしね。
   また、夜は電気を使わないので、晴れていれば満天の星空を楽しめますよ。

駒村)なるほど…体験してみたくなりますね。
成瀬)いいものですよ。また、ニュピの前日には、こんなパレードも行われます。

(ここで、You Tube にアップした映像が流れたはず)
  

駒村)一転して賑やかですね。何か人形を担いでますね?
成瀬)「オゴオゴ」と呼ばれる大きなハリボテを担いで、町をパレードしているんです。




駒村)この「オゴオゴ」は、ちょっと怖い感じですが、どういったものなんですか?
成瀬)オゴオゴは、おもにヒンドゥー世界の魔物をかたどったものです。
   日本で言うところの、妖怪ですね。



   パレードでは、これらの魔物をまつりあげて、お祓いしているんです。言わば、魔物をおだてて、荒ぶるエネルギーを鎮めているわけですね。
   こうして町を浄化して、新年の静かなニュピを迎えるのです。


駒村)は〜。それにしてもこのオゴオゴ、手が込んだアート作品ですよね。誰が作るんですか?
成瀬)地域の共同体ごとに、小学生からだいたい二十歳前後の青年が制作します。バリの人の手の器用さ、創造力には、本当に感心します。そんなわけで、毎年写真を撮っているんですよ。





また、このオゴオゴのパレードの3、4日前には「ムラスティ」という儀式も行われます。こちらは、村のお寺にある御神体を海で浄化する儀式です。


   
駒村)バリの人々は、宗教的な伝統行事をとても大事にされているんですね。
成瀬)そうですね。こうして伝統を継承していくのは素晴らしいことだと思いますし、日本人としても見習いたいですね。


                      *


 と、こんなぐあいに5分ちょっとの生中継が終わったのであった。